第9章

第9章  

 

① 6月14日

 

「It likes a Vietnam…」

 リリーはいつぞやの東南アジア旅行を思い出した。

 ここ二三日で東京の梅雨は本腰を入れはじめ、その雨粒は紫陽花を叩く。

 謎の物体が最後に姿を現してからすでに一か月。東京の人間たちはすでにそれらの話題をとっくに忘れ、今は芸能人の不倫について熱く語らっている。

彼女の生活もこの忌まわしい雨天を除けば、実に平穏であった。

 今日も延々と天から雨が降り注ぐ。オリーブ色のジープから聖木を見つめていた彼女は、その御前に不思議な人影を見た。

 背丈は百八十をゆうに超えているだろう。蒼い日本式の着物のような羽織物。籐で出来た三角錐の唐傘。さらによく見れば顔面にはガスマスクを装着している。

 不審だ。あまりにも不審。しかし。雨中に佇むその姿、どこか美しく思えた。

 リリーがその姿にぼんやり見惚れていると、その人物は何かから逃げるようにササリと消えていってしまった。

 その数秒後、聖木の前には枝が一本折れたビニール傘をさす、見慣れた現代式の男性が現れる。

 聖木の周辺をうろつく男性。公衆便所横の自販機で缶コーヒーを一本買ったかと思うと、男性はまた聖木の周りをぐるぐるぐるぐるとうろつく。

 不審だ。あまりにも不審。ただしかし。リリーはこの不審な男性をよく知っている。リリーは幾度となくこの男とその仲間の危機を陰で救ってきた。

 強い風が吹き、男のビニール傘にトドメがさされる。打ちひしがれる男性に後部座席の傘を差し出そうかと悩んだがリリーはそれをよした。

 私たちはいずれ巡り会うことになる。4WDのホイールは唸りとともに泥を撥ね、不審な男と赤い妖精に届かぬ別れを告げ、鈍色の街へと消えていった。

 

 ジープは分厚い雲の下を走った。高速道路に乗ったその車は都心から湾岸部へと架かる巨大な虹橋を渡っている。

 リリーはこの前、この辺り一帯が数百年前まで海だったという話を上官から聞かされた。

 その海岸がビーチであったかどうかは知らないが、きっと現在よりも美しい海岸線が伸びていたに違いない。

 美的感覚や文化的生活を度外視し、効率や生産性だけを求めた日本の灰色の都市開発には心底うんざりである。

 それでも彼女は事あるごとにこの海を訪れた。

 ロサンゼルスから少し北上した風光明媚な町サンタバーバラ。彼女の生まれ育った町である。サンタバーバラの海とは比べ物にならないほど汚いこの海であろうとも、彼女はそれ見ずにはいられなかった。

 水平線、潮の匂い、波の音、海は彼女の五感全てを研ぎ澄まさせてくれる。

 リリーは湾岸のホテルに車を停め、ホテル内のカフェでアイスコーヒーを注文した。ガラス張りのカウンター席からは海なのか運河なのかよくわからないそれが臨める。リリーのお気に入りカフェの一つだ。

 広大なポケットを複数蓄えた軍用パンツから文庫本を一冊取り出し、彼女はブカブカのパンツの中の引き締まった足を組み本を開いた。

 コーヒーはすぐにリリーの元に届けられる。店員のトレーにはコーヒーがもう一つ。そのコーヒーはカウンター席の一番端、雨に打たれる海面を眺める先ほどの唐傘ガスマスクの人物へと運ばれた。

 彼もここに来ていたのか。何とも数奇なものである。リリーは再び本を開いた。焦る必要はない。時はその内訪れる。雨音が店内のBGMと調和する。

 

 

「遥荒れてんねー!」

 フォームもクソもない浅海遥の投球を友人は笑った。

 大型ショッピングモールの九階にあるボーリング場で浅海は大学時代の友人らとそれを楽しんでいた。専らそれを楽しめていたのは浅海の友人らのみであり、浅海は何か日頃の鬱憤をぶつけるようにして、力任せにボーリング玉をピン目掛けて放っていた。

 見つめど見つめど何も見えてこない。その深さすらも把握できない。謎の物体もヒーローも何もかも。

 やはり一人では太刀打ちできない相手だったのか。浅海は今日も酒に溺れる。彼女の全てを淫らに八ポンドの球体に乗せて。

 彼女の二十一投球目、それは偶然にもレーンの真ん中をツルリと滑り、奥で綺麗に整列する十本のピンを弾き飛ばした。

 浅海はあまりにも美しい自身のストライクに自惚れ、友人らもそれを拍手と喝采で出迎えた。

 次投球者とハイタッチを交わし、その者と入れ替わるように待機席に座る。

 そこにあった缶チューハイの残りをグイっと飲み干すと、ゲゴボオと汚らしいゲップを吐き出しベンチにふんぞり返った。

 浅海は友人の投球をぼんやりと眺めた。今日は気持ちよく寝れそうだ。しかし微睡む彼女の酔いは背後から聞こえてきた一言によってピンのように弾け飛ぶ。

 隣のレーンといえば、合コンか何か知らないがもはや学生でもない男女がキャッキャキャッキャキャッキャキャッキャキャッキャキャキャッキャキャッキャキャッキャキャキャッキャキャッキャキャッキャキャキャッキャキャッキャキャッキャとアホみたいに騒がしくプレーしていたグループである。

 浅海は今や巷では死語である『その単語』については敏感だった。浅海は徐々に正気を取り戻しつつ隣レーンの会話に集中した。

「警察って夏休みとかあるのー?」

 バカ女一号の一言が浅海を大きく真実へと導く。隣レーンの男たちは警察関係者だ。ならば先ほど聞こえた『その単語』もより説得力を増す。

 浅海はやってきた自分の投球順をダブルガーターでとっとと済ませ、隣レーンから最も近いベンチに背をつけた。

 すると浅海の背中合わせの座席には、彼女とほぼ同時に投球を終えた隣レーンの男性が腰を掛けてきた。浅海がギアをいれる。

「お疲れ様です!」

「あ?」 

 男性はキリリと鋭い目をさらにしかめて小さな敬礼をする浅海を睨んだ。

「お疲れ様です!」

 浅海は怖気ず、もう一度言った。

「えっと…すみません。どなたでしたっけ」

「廃棄物集合物体ついてはどこまで!」

「どちら様で」

「FBIです!」

「FBI…」

 男性は呆れた表情で浅海を見た。いかにも頭の悪そうな酒くさいこの女がFBIであるわけがない。そんなことはそこで警察の身であるにもかかわらずボーリング玉の要領で女のケツ穴に指を突っ込んでるバカの二瓶でもわかる。

「…逆にFBIさんはどこまで?」

「それがお恥ずかしいことにまだ何も!」

「そうですか。ウチも大した情報は何もないですよ」

 この男性、自分をFBIだと一ミリも信じていない。それに警察のくせにまるで殺人犯のような冷酷な目つき。このほろよい美女をゴキブリを見るような眼で見下してくる。浅海は確信した。警察は、いや、この男性は何かを掴んでいる。重大な何かを。

「夏焼さんの番ですよお?もっかいストライク見せてくあださーい!♡」

「呼ばれてますよ?『な・つ・や・きさん』♡」

「…お前は誰だ」

「ただのFBIですよ!夏焼さん!」

 浅海は立ち上がり、レーンに向かった。夏焼もレーンに向かい、浅海の投球が終わるのを見計らいモーションに入った。

 夏焼の記憶力は著しく高い。しかし、この投球に限って彼は、自分が一体何本倒したのかを全く覚えていなかった。

 

 

 日が沈み、天空の分厚い雲はその重みに耐えきれず落ちてきた。それはここから見えるはずの都心の高層ビル群をぼやけさせ、赤いランプのみを星座のように空中に灯らしている。

 カフェにも閉店時間が近づく。店内にはガスマスクをした怪しすぎる人とブロンドの美女の二人のみ。店員はさぞ居心地が悪かっただろう。

 この日の遅番シフトは運悪く、女子大生店員二人のみ。

 二人はとりあえず閉店十分前になった瞬間、蛍の光を爆音で垂れ流した。

 するとブロンドの美女はすぐに読んでいた文庫本に栞を挟んで立ち上がり、カップをこちらまで下膳しに来た。

「Thank you オオキニ」

 見惚れるような西洋美女。しかし店員達は帰ってほしいのはお前じゃないと言わんばかりに顔を気まずくさせた。

 リリーは彼女達の表情を見て何かを察し、ガスマスクの人を指さして店員と目を合わせる。

「任セテオクンサイ」

 リリーは彼女たちにサムアップし、ガスマスクの元へと歩み声を掛ける。

「閉店ヤデ」

「…これは失敬。長居しすぎましたね」

 ガスマスクはリリーの一言ですぐに立ち上がり、椅子に掛けていた唐傘を頭にかぶった。

「ごちそうさまでした。見事な一杯でした」

 丁寧に店員に会釈をするガスマスク。リリーも彼女らにウィンクを投げ、二名は店を後にした。

 人は見かけによらぬ。店員たちは蛍の光を大音量で流した自分達を少々恥じた。

「ドコカラ来タンヤ」

 リリーは店を出たところでガスマスクに話掛けた。ガスマスクは立ち止まりそれに応答する。

「遠いところから…。ですかね」

「何デマスクシテンネン。蒸スヤロ」

「…この街の空気は私には汚れすぎている」

「absolutely」

 ゴミ処理場の煙突が排気煙をこっそりと雲中に吐き出している。二人はそれを少しばかし眺めた。 

「イツモココ来トンノカ」

「いいえ。…この景色は私の街とは何もかもが違います。…しばらく見ていれば少しは気にいるかなと思いましたが…。そんなことはありませんでしたね」

「セヤナ」

「…あなたも異邦人と見受けられますが」

「ワシモ遠イ国カラ来タネンナ」

「この街はいかがですか」

「好キナトコロモアルデ。嫌イモギョーサン」

「そうですか」

「コノ街ハ余所者ニハ冷タイネンナ。地球ハマダマダ四角イネ」

「…といいますと」

「ワシハコノ国ヲ護ッテン。セヤノニコノ国ノ人達ハワシ等ニ出テイケト言ットル。デモワシ等ハ戦ワナアカン。ワイ等ヲ良ク思ットラン人達ノ為ニナ」

「なぜそんな者の為、そんな街の為に命を掛けれるのでしょうか」

「ソレガ仕事ナンヤ。コノ国ヲ護ルッチューノガワシノ国ノ仕事ヤネン」

「あなたは強きお方です」

 決して強くはない雨粒が、二人の余所者を冷たく叩く。

「モウ帰ルデ。ジブンハ」

「もうしばらくこの辺りを目に焼き付けておきましょうか。あなたが命を懸ける理由がどこかに落ちてるかもしれません」

「Good.見ツケタラワシニモ教エテクレ」

「そうですね。その答えが、きっといずれ私たちを再び引き寄せるでしょう」

 彼らは再会を運命に委ねた。唐傘に落ちた雨粒ひとつひとつが、まるで紫陽花のようにネオンの光を乱反射している。時に青く、時に白く。淡く、切なく。