第10章
第10章
① 6月29日
天衣無縫の雨雲。絶え間なく降り注ぐ雨。決して強くはない。だからこそ。永遠に止まないのではないかと思えるはいつまでも経ってもこの空の上に滞在している。
濡れたアスファルトの匂いが職員室まで上がってきた。クチナシの葉が滴る雨粒を受けぺこぺことお辞儀をしているのが見える。聖木の成就は近い。
聖木はここ数日でぐんぐんと成長し、重たい雨雲を突き破らんとばかりに天に幹を伸ばしている。こうなればもはや人が見守るとかどうこうというレベルではない。
一帯に群生していたはずの鳥たちはいつのまにかこの空を放棄している。突如上空に躍り出た聖木の出現によるものだろうか。
しかし人間達がそれらに気付くことはまずない。天が人々に傘をささせ、人々の眼を聖木から目を逸らせようとしているのか。そんなことをしなくても、現代人の垂れ下がった首骨では聖木など目に入らぬだろうが。雨は依然降り続いている。
聖木の成長に伴い、梅屋らの目的もいつのまにか『聖木の保護』から『謎の物体の殲滅』に移り変わっていた。
謎の物体はもう一か月半も姿を現していない。かなり不気味だ。まさに嵐の前の静けさといったところか。何も起き何に越したことはないのだが。
妖精達は聖木の成就とともに植物界に帰ると言っている。つまり彼らとの別れも近い。雨は依然降り続いている。
天衣無縫の雨雲。夏焼の吐いた煙と雨雲が重なった。
夏焼と二瓶は吸い殻を排水溝に捨て、鉄道高架の下から車に戻った。二人は嫌な空気が漂う車内で、雨の音とAMラジオに耳を傾けた。
迷惑な活動家さん達はここ約一か月半音沙汰がない。警察の都内公園の警備強化に怖気づいたか。夏焼と二瓶も今日は公園警備のていで人目のないJRの高架下で何をするでもなくただ時間を潰していた。
運転席の二瓶はもはや靴も靴下も脱ぎ捨て、終いには足の爪を切り出した。夏焼も夏焼でスマートフォン上にボートレース中継を映し出し、赤ペン片手に警察手帳へと予想を書き出している。
二瓶が右足の爪を全て切り終え、多摩川第六レースのファンファーレが車内に鳴り響いたその時、一本の無線が彼らの怠惰な脳を刺激する。
「港区虹橋が爆破により陥落との通報アリ。虹橋が崩壊。墜落との通報アリ」
二人の刑事の心臓が失恋に似た激しい動悸の脈を撃つ。虹橋が崩壊。二瓶が靴下を急いで履き、シフトレバーを握る。都内ほぼ全管轄に緊急出動要請が出た。公園のパトロールなどしている場合ではない。してなかったが。
この衝撃はすぐに各メディアが速報を打ち出し、日本中に轟いた。
芽実高校では警察等から指導が出るまでは生徒達を学校で保護する事とした。梅屋は教室で生徒達と一緒になってニュース映像に齧り付いた。
いったい今世界で何が起きているんだ。これは本当に現実の映像か。映画か何かではないのか。
東京中にサイレンが鳴り響く。梅屋はふと、我に返る。
…傍観者だ。完全なる傍観者。ヒーロー?どこがだ。ただの傍観者ではないか。
結局ヒーローなんてものは敵がいてはじめてヒーローとなれるということか。しかも身の丈に合った程度の敵。無力だ。巨大な世界に対し自分は余りにも微細。はじめからヒーローなんかではなかった。巷で持て囃されいい気になっていたのか?この緊急事態に何もすることができないただの一般人が。
そして世界はさらに彼の心を弄ぶ。
「まずいぞ芍薬…」
悍ましく強大な気配。今までとはまるでスケールが違う。ロージエは感受した事の重大さを可能な限り梅屋に伝える。
気持ちの整理がついてしまえば自分はこの場から動かないだろう。ならば整理が付く前に。梅屋は職員室へ駆け降りた。
「桜田さんの会社から依頼されました!」
嘘がバレた後のことなどその時考えればいい。梅屋はとにかく傍観者という立場から抜け出したかった。彼は牡丹を連れて聖木へと向かった。
聖木を初めて見たあの日。まだ若木だったそれはあの時から見違えるほど偉大に成長した。
五人はそれぞれその御前に集結し、視線の奥から黒い壁のように迫りくる物体の大群に息を飲んだ。皆で覇気を上げ妖精の光を心に灯す。自分達がヒーローなのだと自身に言い聞かせるように。雨が少し強まってきた。
地獄のような爆破現場と首謀者特定を急ぐ関係各署とを結ぶ無線上は大量の情報が錯乱し混沌と化す現場をさらに混乱させた。
無線は鳴り止まない。夏焼らの車は完全に詰まった首都高に足止めをくらっている。焦る夏焼に追い打ちをかけるようにさらなる恐怖の電信が入電する。
「廃棄物集合物体、自動で歩行し出現との通報複数アリ。現場確認依頼」
夏焼は憤怒でどうにかなりそうだった。国の一大事にバカなんかにかまってられな…。
夏焼は熱くなった頭を冷やした。自動で歩行?大量発生?前衛アートで決着じゃなかったのか?それよりも通報。目撃。今までコソコソとやっていたのに今更になって。もう姿を隠す必要がない?警察は爆破テロで手一杯。全て出払っている…。
「二瓶Uターンだ!」
「え!?」
「奴らの狙いは公園だ…」
夏焼は二瓶にハンドルを切らせ、高速道路を逆方向へと走らさせた。
「ええ!そんなのアリ!?」
若葉マークの付いた黄緑色の小さな軽自動車に乗った浅海は、急激に高速道路をUターンした夏焼らの車に驚愕した。
『情報は足で稼げ』。その教えの通り、彼女は奔走した。
梅雨の始まりにボーリング場で得た夏焼の名を基に彼女は彼を徹底的にマークした。
覆面パトカーも追えるように、実家から無断で車も持ってきた。にも関わらず、ここ数日の彼らといえば怠惰を極めていた。
高架脇に車を停め、たまに車から出てきたかと思えば、屋根の下で煙草をふかし、車が動いたかと思いついていったら、また今度は公園の横で車を停め、もう車から出ることも面倒くさくなったのか、ドアウィンドウを下げてタバコをふかす。
「警察も何も情報は掴んでいない」。 夏焼のこの言葉が現実だったことに浅海はひどく失望した。
そして数時間前。いつものように彼らの車を張っていた浅海は車内で韓国ドラマを見ながら時間を潰していた。
一話で最低五回のキスシーンがあると言われる当ドラマを一話から欠かさず視聴している浅海は、キスが訪れる数秒前にそれがわかる『キスシーンハイ』に入っていた。
浅海の身体がこの日三回目のキスチャンスを感受し、子宮に力を入れたその時、夏焼らの車が急発進した。浅海は慌ててギアをパーキングからドライブに入れ、ハンドルをしっかり十時十分の位置で持ちアクセルペダルをゆっくりと踏んだ。
「高速のUターンなんて教習所で習ってないんだけど!」
浅海はアクセルペダルを思い切りに踏み込み、ハンドルを目いっぱい左に回した。鳴り響くクラクションを自身へのエールだと思い、黄緑色の軽自動車は、両のサイドミラーを犠牲に見事それをやってのけた。
「遥ちゃん!さすが!天才!」
彼女は自画自賛に気をよくしたのか、さらにアクセルペダルを踏み込み夏焼らを追いかけた。雨は激しく降っている。
梅屋らは只でさえ数えきれないほどの物体の数に加えて、一個体一個体の強靭な強さに苦戦を極めた。
間違いない。この謎の物体。この一か月半着々と戦力の補填をしてきた。そしてもうひとつ。この物体はやはり聖木を狙っている。彼らは遅ばせながら確信した。
遠方が見辛くなるほどに強まる雨脚は、彼らの光を消すほどに。それでも彼らは命の灯は消させまいと、それをさらに燃やした。
雨天にビームを禁じられたひまわりも、リリーに叩き込まれた体術で精一杯戦った。聖木と、またその先に待つ植物界の未来のために。命を懸けて。
聖木の成就。耳で聞く、口で言うのは簡単だがこれほどまでに想像に難しい現象はない。花が咲くのか。あるいは紙吹雪でも舞うのか。
しかし生命の蠢きを感じる。聖木からだ。枝に下がる蕾は今にも弾けんばかりに中から光を漏らしている。聖木の成就は近い。クチナシは鈍色の世界に燦燦と咲き誇っている。
何かが起きる。いや、来る。聖木の成就は近い。物体もそれを阻止しようと、腕部の火炎放射器を構え、強硬手段に出る。
天が味方している。忌まわしい程に毛嫌っていた雨が物体の火炎放射を湿気させた。
「きた…」
妖精達が一斉に聖木の前に整列しその方向へと頭を下げた。地鳴りのような生命の潮流がさらに重低音のように大地に響く。
面々もその時が来たのだと確信した。疲弊と痛感により下がってきた士気を再び上げる。
その時は意外にも静かに訪れた。聖木の蕾がゆっくりと花開き。開いた花弁は蓄えていた眩い光を聖木全体に注ぎ、その尊い光は次第に強まり激しい閃光となった。
梅屋らは意識を朦朧とさせながらも戦い続けた。きっともうすぐこの戦いは終わるはずだ。あの光がきっとこの戦いを終わらせてくれる。彼らは最後の死力を尽くした。
聖木の光が収まった。そこには多数の人影があった。何かはわからない。しかし植物界から援軍が来たのだ。それは確かだ。彼らは歓喜した。
聖木の前で仁王に立つ。妖精とは明らか違う。人間に似たシルエットを持つ生命体。彼らは凛々しく、美しく、雄々しく。彼らの姿を見た瞬間、その強さが骨の髄まで伝わって来た。
植物界の生命体は、聖木の枝と葉によって雨が遮られた大地から、次々と梅屋らが戦う濡れたアスファルトへと躍り出た。彼らは地上から蒸れるアスファルトのイヤな臭いを全て塗り替えるほどに甘い香りを放ち、鞘に収まった剣を抜いた。
「違う!俺たちは仲間だ!」
植物界の戦士たちは物体、人間問わず斬りかかった。彼らの静止にもその剣は止まらなかった。あまりにも理解に苦しむ彼らにロージエは悲しそうにこう言った。
「ごめんね、みんな」
気が付くと彼らはすでに妖精の光を失い、生身の人間へと戻っていた。皆が肌色の両掌を見つめ絶望した。
植物界の戦士たちは彼らが長い間苦戦を強いられていた謎の物体をいとも簡単に破壊していった。
雨は振り続いている。もう止むことがないのではないかというほどに強く、もはや目の前すら見えないほどに。