第36章 -氷点編-
第36章
Ⅰ 12月26日
寒い。凍えるように寒い朝だ。牡丹は鈍色の世界で目を覚ました。
日差しはない。まだ太陽は遥か雲の上に隠れているようだ。
ゆっくりと立ち上がり、カーテンを開ける。
「え…」
牡丹は眼前の光景に言葉を失った。
昨日まで踏みしめていた大地はいったいどこに消えてしまったのか。昨夜踝にも満たなかった積雪は今や公園のブランコをすっぽりと埋め、街路樹は枝先まで凍てつき、生物の声は聞こえない。
牡丹はとりあえずリビングに出た。
「オハヨウ」
「リリさん」
そういえば昨夜、リリーに連絡して来てもらっていたんだった。無論ひまわりの危険な状態を危惧してである。
「おはよう。ボタちゃん」
ひまわりは昨夜と変わらず、炬燵にでなく椅子に座り、牡丹の起床を出迎えた。ひまわりの笑顔はまだ氷のように冷たい。
「おはよう…雪、すごいね」
牡丹が未だ慣れぬひまわりの髪を気にしないように気にしながら、テレビのリモコンに手を掛ける。
「テレビ。ツカヘンデ」
リリーが牡丹に今朝からの現状を教える。牡丹が言うことを利かずに点けたテレビは、リリーの言う通り砂嵐のみを映している。
この悪天で電波がいかれたか。この三人で答えが出せるはずもなく、牡丹はそっとテレビの電源を落とした。
牡丹は木製の器にシリアルと牛乳をいれ、ひまわりの横に座った。リンドウさんのお店は大丈夫かな、などとその場を取り繕うだけの微細も心配していない戯言をひまわりとリリーに投げかけたりした。
リリーはひまわりに何があったのか聞けたのだろうか。今朝のシリアルはやけに味がしない。
「これは攻撃か?」
カーネーションは言葉を失う外界の光景に再びそれを言った。
数分間の出来事だった。聖夜開けて二十六日深夜、カーネーション、カランコエ、そしてラナンキュラスは、戦士達が寝床についた後も要塞屋根からデモ隊の光を眺め続けていた。
「何かが来る」。最初に異変を感じたのはカランコエだった。
速い。風と言うべきか。波と言うべきか。それはこちらに迫ってくる。カランコエは拳に火炎をこめ、ラナンキュラスは鞘から剣を抜く。
!!
次の瞬間。それは草木、デモ隊、人間軍隊、全てを凍らせて三者に襲いかかってきた。
カランコエが迫りくるそれに雄叫びとともに火炎をぶつけた。
『それ』との数分間にも及ぶ攻防の末、『それ』はやがて三者の元を過ぎ去った。
カランコエが火炎の放出をやめる。カーネーションとラナンキュラスは頭をあげ辺りを見回した。
「…」
世界は一瞬で変わってしまった。
彼らが変えることのできなかったこの世界。
世界は氷と雪に包まれた。目下の要塞は凍り付き、要塞を囲んでいた軍、さらに軍を囲んでいたデモ隊は一瞬にして凍り付けとなった。
それはまるで氷の津波だった。それに触れたものは全て一瞬にして凍り付いた。
階下の戦士達は凍え死んだか。カランコエはすぐに凍り付いた要塞の解雪にまわった。
「…」
階下に下るや同胞が埋まる氷壁に手を付けた。
「裏切り者が出ている以上、同胞であろうと簡単に信用するのはもはや愚か者だが。…ペチュニアを信用する愚かな私を信じてくれるか?」
ラナンキュラスは小さく頷いた。
「ケータイも全然繋がんないんだけど!」
牡丹は夕時になろうとも依然繋がらぬ身の回りの情報機器共に苛立ちを露わにした。
外の情報が全くわからない。リリーもそれを欲していたが、ひまわりへの心配が勝り未だその場に留まっていた。
「みんな…やばいのが来る」
ロッタが声を震わせて三人に知らせる。当然のように牡丹が詳細を尋ねる。
ピンポーン
インターホンが鳴った。敵が律儀にチャイムを鳴らして来るものか。牡丹がモニターを覗く。そこに映ったのは紛れもなく。
「総帥だ…」
ロッタが零す。鮮赤色の植物が総帥のカーネーション。加えて画面にはあと二体の植物も見える。
「桜田牡丹。いるなら応答しろ。いないならドアを蹴破り中に入る」
今は停戦協定中のはずだ。戦うことはない。理不尽な二択に牡丹は敢えて答えた。
「…いますけど」
「話がある。中に入っても?」
「イヤですよ。部屋着ですから」
「すまない。レディに対する礼儀に欠いた。五分待つ。身嗜みを整えてくれ」
「短いんだけど!てか入れるって言ってないんだけど!」
「五分が限界だ。それ以上この外気に晒されれば私たちは凍死する」
「…はいはい」
牡丹は不貞腐れながらリリーとひまわりにその旨を伝え、夕時まで着っぱなしだった寝間着を脱いだ。
部屋干ししている洗濯物や散らばった衣類等ををとりあえず牡丹の部屋に全てつっこみ、彼女らは七分二十三秒でカーネーションらを迎えた。
「…どうぞー」
「すまない」
思ったよりも大きくない、しかしさすがの威厳。
カーネーションが牡丹に突然の訪問を詫びる。その後ろに続いて、軍服を身に纏った二体の戦士が牡丹に会釈をし部屋の中へと入ってきた。
リビングへと入室したカーネーションらにひまわりは温かい紅茶を給仕した。リリーはただ彼らを鋭い眼光で睨んでいた。
リリーは複雑だった。リリーは軍人として植物打倒派を貫いてきた。ハイドランジアとの激闘で仲間を失い、その意識はさらに強まっている。
しかし、彼女はカランコエの圧倒的な火力の前に敗れ死の淵を見た。その彼女の命を救ったのもまた植物であるカトレアだった。
そして彼女が昏睡状態の時、梅屋らとアルプローラとの間に協定が結ばれた。
軍は依然、植物との戦線に立つ。リリーも軍に所属する以上その任務を背負っているが、この命を救ったのは梅屋の契約であり植物だ。
彼女はそれを破り、軍人として仲間の仇の為に植物を攻撃するのか、あるいは恩義と忠義を持ち、植物への攻撃を避けるのか。
彼女の選択は後者だった。彼女は究極の選択肢を与えた神に毎晩問うた。
今、目の前には敵軍の大将と、自身を死の淵に追いやった因縁がいる。彼女はまだ、自分が選択肢の途中にいることに気付かされた。彼女の右手は常に、ジャケットの中に仕込んであるホルスターに掛かっている。
ひまわりは位置を探るカーネーションに対し自身が座る隣の椅子に座することを勧めた。カーネーションはそれに素直に応じ、一息ついた後、静かな口調で現状を語り始めた。
「アルプローラの市民として生まれたからには、例え絶滅の結果が見えていようとも、我々は最後まで国家の為に戦い続ける。それが例えお前達から見て愚かであろうともな」
重苦しい入りだった。しかしながらそれは三人の人間を聴く態勢にするには効果覿面だった。
「外には出たか?」
「いえ。今日はずっと部屋にいました」
「そうか。現状を言おう。今世界にはここにいる六名しか残されていない」
牡丹らは文字通り言葉を失った。こんなに理解が難しい話は高一の数学以来だ。
「明朝の大寒波はおそらく薬師による攻撃だ。ここにいる六名いや、七名以外の生物は全て氷漬けにされた」
「七名?…てかちょっと待って。全然話が見えてこないんだけど!明朝の大寒波って?」
「簡単に説明しよう。明朝に大寒波が来た。お前たち以外の人間は全て凍った。そういうことだ」
「説明する気ないでしょ!全てってどの全て?先生たちとかってこと?それともホントに全世界?」
「後者だ。無論。我々の同胞達もな。ここに来る前に例の花屋に寄って来た。梅屋芍薬が雪掻きしたまま凍ってたよ」
「何で私達だけ無事なの?」
「我々三人はカランコエの火炎によって大寒波から耐え得た。君たちが生き残った理由はわからないが、おそらく菊江ひまわりの太陽の能力のおかげだろう」
「ひまちゃんの」
「彼女の太陽が君たちを冷凍寒波から守ったと仮定すれば説明がつかなくはない。原因はどうであれ君たちは生き残ったというのは事実だ」
ひまわりの顔が少し緩んだ気がした。リリーは依然硬い表情でカーネーションに話の続きを求めた。
「我々は薬師にスパイを送っていた。ペチュニアという戦士だ。ペチュニアは自身の『差し芽』をあらゆる場所に植え付け、彼は彼の差し芽を彼の五感とすることができる開花能力を有していた。スパイには持ってこいの能力だ。あちらが我々の戦力を摘まんでいくという性質上、潜入自体は容易だった。しかしあちらには頭の中を覗くリコリスという外道がいる。このスパイ任務が成功する見込みは低かった。しかしペチュニアは勇敢だった。その勇敢さが疑わしくもあったのだが。ペチュニアがこれまでに寄越した情報はたったの一つ。ここまで四つの技術で我々を蹂躙してきたクソッタレがさらに第五の革命『トランスプラント』を発明したという胸糞悪い報告だ」
「transplant...?」
「簡単に言えば『記憶の植え付け』らしい。我が国家の恥部であるクラステル・アマリリスの能力構造を理解した薬師がそれを応用し、個体に史実と異なる記憶を植え付ける技術を開発したそうだ」
「テロリストトサレタ薬師ガ人々ノ記憶ヲ改竄シヨウトシテル?」
「そう。クソッタレがこの世界の英雄であるという気色の悪いシナリオを人類の頭に植え付ける気らしい」
「そんなことができるんですか」
「その為のこの大寒波だろう。戦士の中にスノーフレークという冷凍能力を持った者がいた。スノーフレークの冷凍能力は手に触れたモノを凍らせる程度だったが、薬師はその能力構造も利用しこの大寒波を生み出したのだろう。クソッタレは御覧の通り世界を凍らせ、全ての人類を冷凍保存した上で、一個体一個体律儀に頭を開けてく御寸法だ」
「そんな」
「ペチュニアは寒波については語っていなかった。しかしそう考えるのが筋だろう。とにかく。時間がない。ネジネジ考察などしてる暇もないだろう。じきに薬師はこちらに施術班を寄越す。それが我々の模造兵なのか機械なのかは知らないが」
「私たちはどうすれば」
「そこが問題だ。我々は薬師の潜伏先もまだ突き止めていない。そこで人間軍であるリリー・エーデルワイスならばそれを知り得るかと思いここに尋ねに来た」
「ナルホド。シカシワシニモソレハワカラン」
「小鳥島です」
「!」
ベランダから一人の女が部屋に入って来た。カーネーションが初めに言った『七人目』の生存者である。
「あ、誰だっけ。えーっと」
「名乗るほどの者じゃございやせんので!」
「そりゃそうでしょ。調子乗んないでよ」
「すみません。浅海です」
「そうだ。あん時の失礼インタビュアーだ。なんでここにいんのよ」
「牡丹ちゃんつけてたら運よく生き残っちまいました」
「ずっとそこいたの!?こわ!訴えるぞ!」
「ざんねーん。もう裁判所も警察署もみんな凍ってまーす!やってませーん!」
「うざー!」
「…済んだか?女、小鳥島と聞こえたが」
「あ、はい。小鳥島です。伊豆諸島の無人島。そこに薬師がいます。確かな情報です」
「そうか。繰り返しになるが我々に考えてる暇はない。明日の夜明けとともに我々は薬師の潜伏する小鳥島に攻撃を仕掛ける。お前たちはどうする」
「その島にクラステルもいるんですよね」
カーネーションの問いかけにいの一番に応えたのはひまわりだった。
「そう考えてまず間違いない」
「行きます」
「ひまちゃん!」
牡丹が立ち上がってひまわりの肩を握った。
「大丈夫だよボタちゃん。私はボタちゃんやリーダーより強いから」
「ひまちゃん…」
牡丹は言葉が出なかった。決してひまわりが言うはずのない冷たい言葉に。
「うむ。リリー・エーデルワイス。君はどうする」
「of cource.ワシモ行クデ」
「では明日の夜明けとともに小鳥島に攻撃開始。以上」
カーネーションが立ち上がる。リリーの顔が引き締まる。
「あのー…私はどうすれば」
牡丹がカーネーションに物申す。
「薬師の施術部隊がいつこちらに来るかわからない。お前は私とともにこちらに残り、花陽隊員達の蘇生だ。もちろん戦いにも備えろ」
花陽隊一同が席を立ち、厚手のコートを羽織る。
「これは我々の死に様の証明でもある。我々三名の身体はすでに疫病にょって蝕まれはじめている。お前達の共存を訴える行進には聊か感じるものもあったが、遅かった。残念だがな。しかしアルプローラが歩めなかった未来はお前たち四人に懸かっている。その使命を慶べ」
カーネーションが突然の訪問を再び詫び、リビングから出た。決して長くない廊下を歩き扉の外の氷河の世界へと消えていった。
牡丹が怒涛の展開にへたり込んだ。
「明日かあ。準備しなきゃ。お土産買ってくるね。何が有名なのかなあ」
「みんな凍っちゃってるんじゃないですか?」
「そっかあ。浅海さん賢いね」
「まあ。大卒ですから」
ひまわりは浅海とバカ同士健気に話しをしていたが、その目は決して笑っていなかった。
「デ、ジブンハドウスンネン?」
「私ですか?私はどうしよっかな。とりあえず私もここで寝泊りしますかね」
「はあ!何でそうなんのよ!」
「牡丹ちゃんはこのか弱い女性が凍死してもいいって言うの?グスン泣」
「ウソ泣きすんな!…ああもう好きにして!」
「さすが牡丹ちゃん!美少女!」
大寒波から丸一日が経とうとしている。世界は再び闇と雪に包まれ、氷漬けのデモ隊が握るカラフルなペンライトは依然雪の下で光り続けている。
2 十二月二十七日
深夜。牡丹は喉に妙な渇きを感じ眼を醒ました。
重ねた布団とともに起き上がり、洗面所に向かう。
蛇口を捻る。水が出てこない。そうか。水道が凍ってしまったんだ。ひまわりが夜言ってた。北海道ではそれが普通らしい。鏡を見る。寝起き姿も中々可愛い。
仕方がないからキッチンの冷蔵庫をあける。オレンジジュースをコップに汲み一気に飲み込む。喉が潤った。
リビングを通って部屋に帰る。リビングではバカと外国人が炬燵に入って鼾をかいてる。バカはともかく、リリーは本当に顔に似合わず、何というか逞しい。
ひまわりは寝ているだろうか。ひまわりの顔を覗く。髪が無くなったおかげで顔がよく見える。綺麗な寝顔だ。彼女は今どんな夢を見ているのだろうか。
彼女の思考を考える度に頭の中がどす黒い闇に覆われる。何が彼女を闇に落としてしまったのか。牡丹は思わずひまわりの布団に潜り込んだ。
「ぼたちゃん…寝れないの?」
牡丹はひまわりの問いかけを、無理のある寝たふりで流した。
ひまわりは牡丹の頭を撫でる。何故か流れてくる涙を隠すように牡丹はひまわりの胸に顔を埋めた。