第24章 -再生編- 

第24章

 

Ⅰ 8月27日 ②

 

 梅屋が都内某病院に駆け付けた時にはもう。

 

 その入り口は下衆なマスコミによって取り囲まれていた。梅屋はそれを割って院内に入構し受付に牡丹の搬送先を訪ねた。

 当然受付の若い女性はすぐにそれを教えなかった。が、梅屋が自身の身分照会を済ますと、受付は彼を緊急外来控室へと案内した。

 梅屋は平然を装いながらも可能な限り歩幅を広げ控室に向かった。

 梅屋は壁の前に並べられた椅子の一つに腰を掛ける。まもなく廊下の奥の方から一人の医師が梅屋の元にやってきた。

桜田様ですか」

「いえ…。私は桜田牡丹さんの担任の梅屋と申します」

 梅屋が自身の名と身分を伝える。対して医師は梅屋に彼女の様態を伝える。

 所謂今夜がヤマ。植物の襲撃による大量出血及び重度の外傷。梅屋はあんぐりと開けた口をゆっくり閉じ、その後は祈ることしかできなかった。

 梅屋が辺りを見渡す。彼と同じように両手を結ぶ多数の者。おそらく牡丹と同様にその植物の襲撃により搬送された方たちの親御と見受けられる。

 

 梅屋が病院についてから一時間、控室に一組の男女が駆け付けてきた。男女は見るからに顔面を蒼白とさせ、梅屋の横に着座した。

 看護師が彼らを「桜田さん」と呼んでいた。牡丹の両親だろう。梅屋は少し悩んだのち、先ほど医師から聞いた情報と自身が牡丹の担任であることを伝える。

 見るからに動揺する男性。同様に意識を失いかける女性の肩を抱き抱える。

 牡丹が転校してきた際、電話越しでの挨拶はあった。しかしそれが彼らの気まずさを解消させる薬にはならなかった。

 しばらく続いた沈黙。破ったのは牡丹の父親だった。

 彼は牡丹が栃木の実家を離れて東京でアイドル活動をすることに以前から反対していたという。今回は植物によるものだったが、今日のような事件は色恋営業をする現代アイドル産業においては遅かれ早かれ起こり得るものだったと彼は語った。

 父親は話の序盤こそ現代社会の過失を訴えていたが、最終的には彼女の夢を応援するといって牡丹を無責任に東京に送り込んだ自身を責めた。

 梅屋はどこまでも自分が情けなかった。いち人間として、いち教師として、自分は生徒一人すらも護ってやれない。それどころか目の前の親御さんに掛ける言葉すら見つからない。一度は植物界を守るなどと豪語した男がだ。本当に情けない。

 梅屋は立ち上がり、またその場から逃げ出した。

 

 梅屋が小便器の前でズボンのチャックを下ろし、出もしない小便をいつまでも小便器の前で待つ。

 壁に貼られた『あと一歩前へ』という言葉が眼に刺さってきた。

 

「やあ、調子はどうだい」

 

 幸いにも全く放尿していなかった梅屋はその声の方を振り返ることができた。ロージエ。久方ぶりの再会は雰囲気もクソも尿もなかった。

「…何しに戻って来たんだよ」

「元気かなと思って。その節は悪い事をしたね」

「そう思うなら放っておいてくれよ」

「でもよかったじゃないか。もうすぐ君の愛する植物の世界が戻ってこようとしてるんだよ?」

「…」

「まあいいや。元気そうで何よりだよ」

 ロージエはそう言うとあっさりと帰っていった。梅屋もそれを阻まず。するとようやく出しっぱなしのイチモツからチョロチョロと小便が出てきた。

 梅屋が一時的な解放感に浸っていた矢先、先ほどの声。再び背後から。

「あ」

「!!」

「君はもう僕の力を使えないと思っているだろうけど僕たち妖精の力は君たちの体の中にいくらか残存しているみたいだね」

「おい!さっき帰ったんじゃなかったのか!」

「僕らといたときほどの力はもう出ないだろうけど力は使えるはずさ。人一人守れるくらいの力はね。じゃ。急いでるから」

 ロージエは再びどこかへ消えていった。

 辺りに撒き散った自身の尿。どうしたものかと腕を組んだ梅屋はとりあえず出ているものをしまい、洗面台に向かう。

 鏡に映った自身の顔を数秒見つめる。右手に力を込めてみる。何も起きない。尿は巻き散ったまま。鏡の自分に笑われている。

 

 

「どこ行ってたんだロージエ」

「すまないデルフィン。さあ急ごう」

 赤と青の光の尾が雑多な街へと消えていく。

「クラステル」

「おやおや。まさかそちらから出向いてくるとは。よくこの場所がわかりましたね」

「この臭い世界では妖精の匂いが目立つんだ」

「さあロッタを返してもらおうか」

「断るといったら?」

「それは困るな。これは独断行動ではないカーネーション総帥の勅命だからね」

「なるほど。もし断れば私の元にたくさんの兵隊さん方がやってくると」

「その通り。お前がロッタを連れている限り君の居場所は常にまるわかりさ。さあわかったらその妖精を解放しな」

「交換条件ってのは、受けてもらえますか?」

「一応聞いておこうか」

「ありがとうございます。じゃあ赤い君。君がこの子の代わりに私の元に来てくださるならこの子を解放しましょう」

「なぜ妖精を囲いたがる?」

「光る人間。君たちが創り上げた可哀そうな子達。彼らの居場所が知りたいんです」

「それならば別に居場所を聞けばいいじゃないか」

「彼らはですね、傷ついた君たちを見ると血相を変えて向かってくるんですよ。それがあまりにも快感でしてね。お恥ずかしいことに。この条件をのんでくれるならばもう他の妖精に手を出さないと『大聖木様に』誓いますよ」

 ロージエは交換条件の内容よりも目前の下衆野郎が軽はずみに大聖木様の名を口にしたことに腹を立てた。が、取引の手前、冷静を装った。

「…わかったよ。まずはその妖精をこちらに寄越してくれ。その後、僕がそちらに行こう。『大聖木様の』名に誓って」

「…ほら、どうぞ」

 クラステルはロッタを二匹の方へ投げつける。デルフィンはそれを捕まえ、優しく抱きかかえた。

「さあ、おいで」

「…ロージエ!」

「大丈夫。デルフィン。大聖木様と総帥にありのままを伝えてくれ」

 デルフィンと気を絶したままのロッタに別れを告げ、ロージエはクラステルの元へと移動した。クラステルはロージエの身体を掴み、廃墟から飛び出し夜の街へと消えていった。

 

「で、彼らはどこにいるんでしょう?」

「…芽実高校。そこで人質でも取ればきっと彼はあっさり姿を現すよ」

「芽実高校。場所は自分で調べろってことですね。…で他の連中は?」

「その男を倒せば、君の能力でわかるんじゃない?君は『そういうの』が好きみたいだし」

「フフフ。中々鋭いですね。是非いつか君の頭の中も覗いてみたいですね」

「その時はこの世の終わりだよ」

 

 人気の少ない静かな遊歩道、コツコツと歩く女性に話しかける一つの陰。

「…すみません。芽実高校ってどちらでしょうか? …そうですか。へえ今は夏休み中?じゃあ九月とやらに出向いた方が面白そうですね…。」

 人気の少ない静かな遊歩道、一つの女性の首が転がっている。

 

Ⅱ 9月1日

 

 八月が終わった。生徒達にとっては『八月が終わった』、というよりも『夏休みが終わった』という意識の方が支配的か。

 近年の九月と言えば残暑うんぬんとかではなく、ただ単純に夏である。

 登校してくる生徒。ほとんどが上着を手に持ち歩いている。二学期の始まりとともに冬服の着用が義務付けられる校則も早いうちに改めなければならない。

 新学期の教室。やけに静かだ。室内を見回すと有田の姿がない。そりゃ静かなわけだ。

 出席を取り始める。桜田牡丹、森山スミレの返事もない。牡丹はともかく、森山スミレといえばこれまで学校を皆勤している。風邪でも流行っているのか。

 放課後の教室。学期の掲示物を改める誰もいない教室。秋風がまだ固いコピー用紙をはためかせる。

 

 

 船が行き交う夜の港。コンテナに寄りかかり行き交う船を眺める一人の男。

「あなた…数えきれないほどの人を殺めてますね。私と同じだ」

 上からの呼び掛け。男は体勢そのままに目線を上げる。コンテナの上。こちらを覗き込む深紅の植物体。

「オレは殺した奴の顔と名前は全て覚えている。お前と一緒じゃないな」

「そうですか。じゃあ私もあなたの名前を覚えておきましょうか。これからあなたを殺すわけですし。あなたの記憶は是非見てみたい」

「気持ち悪い奴だな。殺すぞ」

「あなたの為に私の名を教えておきましょう。クラステル・アマリリス。あなたの脳裏に刻んでおいてください」

「まじで気持ち悪いな」

「ふふふ。名乗らなくともあなたの名前は私にはわかるんですよ」

 クラステルが刀を鞘から抜き男性に斬りかかる。

 

ギャギン!

 

「!!」

 男性はクラステルの太刀を何の工夫もなしに浴びた。しかし男性は涼しい顔でしてクラステルを睨む。

「お前はそうやって人を殺してきたのか」

「!?」

ガキンカギンガキンガキンガキン!

 クラステルが不格好に何度も太刀を振り下ろす。

「…まだやるかい?」

「ななんで貴様は無傷なんだああ!!!?」

 わがままに何度も振り下ろされたクラステルの剣。男性に一太刀も浴びせることができずに朽ち果てた。

「おいおい、さっきまでのお行儀の良さはどうした」

「ふ」

「何を笑ってるんだ貴様は妖精の分際でええ!!」

「おいおいマジのキチガイじゃねーか」

 クラステルは自分を嘲笑した、腰に据えたロージエを痛めつけた。しかし妖精を視認できないこの男性の眼には、植物体が自分で自分の腰元を何度も叩いているようにしか見えず、思わず前述のような諸感想をもった。

「気がすんだか?今弾がねえんだ」

 男性はそう言うと重い腰をあげ、クラステルにまんまと背を向け闇の中に消えていった。

 クラステルはこの憤怒の全てをロージエにぶつけた。妖精が絶命しないことを良い事にクラステルは数時間ロージエを弄り続けた。

 

Ⅲ 9月2日

 

 新学期の授業が本日から再開する。有田は今日も姿を見せなかったが、昨日に比べ教室内は騒がしかった。その和の中心は桜田牡丹であった。

 皆が牡丹の具合を心配した。しかし彼女は終始あっけらかんとし、全ての心配は無用であるとそれらを拒んだ。

 

 一、二限目を終わらせた梅屋。例によって三限目の下準備に取り掛かる。

 三限目は一年生への授業ということで、彼はより生徒たちの理解度を高めてやりたいと、両手いっぱいに自作の教材を抱え教室に向かった。

 このクラスは一学期から引き続きとてもおとなしいクラスだ。授業への意欲が強く表れている。どっかのクラスとは大違いだ。

 授業が中盤に差し掛かる。ついに昨晩夜更かしして創作した教材が教卓の上に登壇する。その瞬間、大音量の校内放送が梅屋の名を呼んだ。

 目に見えるように肩を落とす梅屋。生徒たちにとりあえず自習を告げ、呼び出し先である校長室へ向かう。

「遂にクビか」放送を聞いた二年B組の生徒らは、口を揃えて湧いた。この時間を担当していた紅葉も一緒になって笑った。

 

 重厚な校長室の扉を元気よく三回ノックし入室する。背広を羽織った大きな背中は逆光により悪魔のような漆黒のシルエットとなり窓際に立つ。そして本革のソファーにはうつむく有田。

「いったい何事でしょうか!」

 悪魔はゆっくりと振り返り乾いた分厚い唇を開けた。

「梅屋先生。有田君が暴行事件をはたらいたそうだ」

「暴行?」

「学校としては規則に沿って彼を停学処分としなければならない」

「ちょっと待ってください!状況がわかりません!彼とちゃんとお話しされたんですか!」

「先ほど警察の方たちから連絡があった。相手の学生は複数の骨を折る重傷だそうだ。…さすがに擁護はできない」

「有田…」

「最近君のクラスはどうなっているんだ。桜田さんの件もある。君の雇用についても考えなければならない。…少し彼と話をしなさい。隣で待ってるから終わったらまた呼びなさい」

 校長は梅屋と有田を校長室に残し隣の応接室へと移動した。梅屋は有田の対面に座りいったい何がどうしたのかと問うた。

 きっかけはしょうもなかった。有田とスミレが牡丹の見舞いに行く途中、どこから聞きつけたのか牡丹目当てで病院の周りをうろちょろする学生が多数いたという。スミレはそれらをよく思わなかった。

 

「どけ!邪魔!」

 スミレは道を塞ぐ大学生と思われる男連中にわざと肩をぶつけ、彼らの間を割った。男連中はそれに腹を立て一人がスミレの腕を掴み食い下がった。それに腹を立てた有田は。

「お望み通り牡丹と同じ病院に送ってやった」

「…有田。暴力とか腕力で勝負をつけるのは弱虫の証拠だ」

「じゃあ相手が殴ってきたらどうすんだよ」

「堪えるんだ。納得いかなくてもそれで場が収まるなら謝るんだ。決してお前が悪くなくても。辛い痛い苦しいのその先には必ず勝利が待っている。いいか。お前が暴力で仮の勝利を手に入れたところでどうなった?お前は停学になった。これはお前の負けだろ」

「あ?」

「いいか。人間はもう力で争わなくてもいいように何万年もかけて他の動物とか虫とかにはない言葉と心っていう武器を手に入れたんだ」

「いやわかんねえって。綺麗ごとばっか並べんな。お前の言葉で説教しろ

 

「!!」

 

 校庭から女子生徒らの悲鳴。慌てて窓から外の校庭を見下ろす。校庭の奥、一体の深紅の植物体。のそのそとこちらに向かってくる。

「逃げろ!」

 梅屋が校庭の生徒たちに叫ぶ。赤い植物体。放つ妖気。鳥肌を立てさせる。

「梅屋くん!警察に電話だ!」

 校長室に戻った校長が梅屋に叫ぶ。しかし梅屋は動かなかった。彼は自身の思考で頭がいっぱいだった。

 何だあの妙な感じは。なぜあいつに懐かしさや憎たらしさを感じる。梅屋はさらに目を凝らして植物体を観察する。

「ロージエ!」

 梅屋は植物体の腰にくくられたロージエの姿を発見する。あいつは間違いなく自分を狙っている。理解した途端に背筋が冷えた。

 植物体は決して急ぐことをせず、腰に掛けた鞘から剣を抜き女性生徒を順々に切っていった。血しぶきの沁みるグラウンド。平和な学び舎に戦慄が走る。

 教室から惨劇を見ていた牡丹。その植物体の姿。あの時の。

 しかし敗北の記憶が彼女の足を躊躇させることはない。策もない。けど勇気はある。私の宝物の仇。てゆうかやられた分をやり返す。牡丹は「バレる」などという細かいことは思考から除外し、校庭の生徒達を救出するために窓から飛び出そうと窓枠に足を掛ける。

「やめなさい桜田さん!」

「何すんのよ!触んないでよ!」

 紅葉が牡丹の腕を掴みそれを止めた。

「あなたが行って何になるの!その体で!」

 牡丹のセーラー服の胸元がはだけ、痛々しく巻かれた包帯が露わとなる。

「余計なお世話なんだけど!じゃあどうすんのよ!見殺しにしろってゆーの!?そんならあんたが止めて来いよ!」

「私はこの教室のみんなを絶対護るから!だから絶対外に出ないで!ここは私に従いなさい!」

 初めて声を荒げた紅葉を見た。彼女の勇気と正義に牡丹はその顔を立てざるを得なかった。冷静に考えればそりゃこの体であの凶悪な植物に敵う訳ないけどさ。居ても立っても居られないじゃん。牡丹は歯痒さを抑えきれず窓枠から降りるやいなや黒板を思い切り殴った。

 この場で戦えるのはお前だけだぞ。お前だけ。頼りないお前。全てはあのバカに懸かってる。何やってんだよ。

 牡丹は貧血で意識を遠のかせながらも細い腕でなんとか自らを支え、ヒーローを待った。

「梅屋くん!軍はまだ来ないのか!」

 校長の叫びが壁に掛けられた歴代校長の額縁が揺らす。梅屋はそれを余所眼に角のロッカーに収納されたモップを取り出し、有田に静かに語り掛けた。

「有田。先生さっき暴力で解決するのは弱虫だって言った。先生もな、弱虫だ」

 そう言い残すと梅屋は勢いよく立ち上がり三階の校長室の窓から校庭に飛び降りた。

「!!」

「梅屋!」

 校長と有田がその名を叫ぶ。校庭のほぼ中心にいた植物体はすぐに梅屋に気付き、女子生徒の殺戮を止める。

 

 二人はお互いに近づき、植物体は梅屋に言った。

「あなたは光る人間でしょうか」

「その妖精はどうした」

「彼が見えるという事はそういう事ですね。私の名前はクラステル・アマリリス。この妖精はまあつまり光る人間発見器といったところでしょ

「ふざけるな!!」

 誰も聞いたことがなかったであろう梅屋の怒鳴りが校舎を揺らす。

 梅屋は右手の拳を握りしめ光を灯した。赤く輝くその拳。クラステルは歓喜した。やっと二人目。

 梅屋の赤い光はやがて彼の全身を包みこむ。

 

「ヒーローがきた…」

 

 学校が静寂に包まれる。

 梅屋は自身を包んだ赤い光を勢いよく振り解く。そして、校庭の中心に赤色のヒーローがその姿を現した。

 

「いけえええ!」

「梅屋先生!」

「やってやれ!」

「梅屋!ぶっ殺せ!」

 

 ヒーローの登場にその場の人間が狂喜乱舞する。

 クラステルが狂気的な笑みを浮かべ梅屋に切りかかる。梅屋はそれを見切り、赤く灯らせたモップでクラステルの一閃を受け止めた。

 クラステルはがら空きとなった自らの腹部にしまったと思った。しかし梅屋から反撃は訪れなかった。

 これはラッキーだが…少々興が削がれる。クラステルは大きな太刀筋で再び梅屋に追撃する。梅屋はそれをまた剣道のお手本のように弾き飛ばす。しかしまたしても梅屋の反撃は振り下ろされない。

「…所詮ただの人間でしたね。妖精の力を受けてもこの程度」

 クラステルは梅屋の実力を見切り、この勝負を終わらせる鋭い一閃を振る。しかしそれもまた梅屋によって弾かれる。

 今のは力を測ったさっきのとは違う。クラステルがさらに刀を振る。しかし振れど振れどその太刀は全て梅屋に捌かれる。そして太刀が弾かれる度にクラステルの身体は無防備に晒される。それでも梅屋からの攻撃は一度も起こらない。

「どうした。所詮人間だぞ」

「き、貴様あ!」

 梅屋の受け太刀は握力のなくなったクラステルの手から遂に彼の刀を弾き飛ばした。

「…」

 こいつ!反撃できなかったんじゃない!しなかっただけだ!測られてたのはオレの方だった!

 刀を失ったクラステルはその場に無防備に晒された。それでもなお梅屋はクラステルにトドメをさすことをせず、それどころか赤らめたモップをその場に投げ捨ててみせた。

 クラステルはそのなめきった梅屋の振る舞いに怒りを制御できず、己の拳で梅屋に殴り掛かる。

 

ブジュル!

 

「!?」

 クラステルは怒りのままに梅屋の鳩尾を殴った。しかしその場に跪いたのはクラステルの方だった。

 梅屋を殴ったはずの右の拳からは何故か自身の体液が垂れ流れ、次第に神経が激痛をクラステルに伝える。

 クラステルが梅屋の身体を見上げる。梅屋は特に何の工夫もなくその場に立ち、クラステルを見下している。

「クラステル。観念するんだ」

 クラステルが再び梅屋に殴り掛かる。その時、茨のような何かが出現し梅屋の身体に巻き付いた。クラステルの拳はその茎と棘によって防がれ、クラステルは再び自らの拳により自身を傷つけた。

「…痛いか?」

「貴様ああ!」

「痛いだろう?後悔しているだろう?相手を殴るというのはそういうことだ」

 全く攻撃を仕掛けない、それなのにこの勝負を優位に進めていく梅屋の背中を有田ら生徒たちは目に焼き付けた。

 クラステルは梅屋に背中を向け背後に転がった自らの剣を走って回収した。

「人間風情が説教垂れてんあああ?!」

 もはや言葉として機能を成してない叫びとともにクラステルは三度梅屋に襲い掛かった。

 

ビュルゥィィィィィィン!

 

 クラステルの身体は梅屋が出現させた茨によって縛りあげられ、彼の身体は校庭に砂煙をあげ滑り転げた。

「これで君はもう誰も傷付けることはない」

「ふっざけるなああああ!ほどけ!ほdけ!」

「君を裁くのはこの星だ。地球がもし君を許せばその茨はきっと消える」

 梅屋の身体を纏っていた赤い光が次第に収まる。終わった。

 …いやまだだ。砂煙の左方から殺気とは違う気配。梅屋が再び身体に力を込める。しかしロージエはそれをやめさせる。

芍薬。もう大丈夫だよ。彼は違う」

「違う?」

 砂塵の中から姿を現し新たな植物体。見るからに満身創痍。

「やってくれたな、クラステル」

「貴様あああ!!生きてたのかあ!?」

「うるさいなあ。ちょっと黙ってろよ」

 縛り上げられたクラステルの元に歩み寄った植物体はクラステルの額をつま先でポンと蹴った。

「おい!助けに来てくれたんだろう??おあの時の事は謝るから!だからお前これをとってくれ!!同じ植物じゃないかああ?この人間を一緒に殺ろう!解いてくれ!」

 植物体はクラステルの頭を今度は思い切り蹴り上げた。校舎からは皆がまた新たな植物体と対峙する梅屋の姿に固唾を飲んで見守る。

「…君たちの目的はなんなんだ」

 梅屋が問う。

「…まあ人間にも色んな考えの人がいるだろう?植物だって同じさ。人類を滅ぼそうとする者もいれば、平和を望む者だっている。こいつみたいに頭のおかしい奴もね。…そんで本題だけどこの植物はこちらで預かっても構わないかい?」

「どうするつもりですか」

「ちょっとこれには貸しがありましてね」

「助けてくれるんだなあ!・・・やっぱりそうですよね。失敬。少しばかり気が乱れてしまいました。さあとっととこの人間を殺しましょう!」

「うるさいやつだな。誰がお前なんか助けるか。犯した罪の数だけ働いてもらうぞ。一生分じゃ足りないかもな」

「あなたは何者なんですか」

「私もあなたとと同じただの教師ですよ。ま、言葉なんていくらでも嘘がつけますから。だからこれ以上はあえて言わないでおきましょう。どうしても聞きたかったらその小さなお友達にでも聞いてください」

 植物体はロージエを指さした後、五月蠅く喚くクラステルの口に校庭の砂を詰め込みそれを引きずって学外へと歩いて行った。

 植物体が去って行く。それとうまく入れ替わるように学校には警察、救急、自衛隊が遅すぎる到着を果たした。

 梅屋は肩の力を落とし、校舎の方を振り返り生徒たちの顔を見る。

 

「!!」

 

 梅屋が勝ったのだ。生徒、教職員達の歓喜に梅屋は俯いた。照れからか。校庭で救助を待つ女子生徒を偲んでか。理由はここからではわからないが、彼は間違いなく、この学校のヒーローだった。

 

 梅屋とその場の責任者として校長は数時間の事情聴取を受けた。日も落ちはじめ、太陽がクリーム色の校舎をオレンジ色に染める。

 聴取が終わり、梅屋は静かになった校内をひぐらしの鳴き声を聞きながら少し歩いた。

 警察に自分がヒーローであるということは口が裂けても言えなかった。リンドウ達との約束もあるが、何より自分でヒーローと名乗り出るのが憚られた。まあそれでもきっとおそらくは校長ないし生徒の誰かがそれを口に漏らしてしまうだろう。

 クラステルは自分や牡丹がヒーローだと知ったうえで襲ってきた。今後そのような植物に再び狙われない保証はどこにもない。

 有田の件もあるし、きっと自分はもうこの学校にはいられない。梅屋は見納めという気持ちでこの校舎を練り歩いていた。

 最上階の音楽室のそばを歩いていると、廊下の窓から差し込む夕日と重なった赤い光がこちらに話しかけてきた。

「ありがとう。芍薬

「ロージエ」

「どうして助けてくれた?君を裏切ったのに」

「悲しいかな君を助けたわけじゃない。ごめん」

「そっか。まあいいや。僕が君に感謝することには変わりはない」

「…ロージエ。君は何を望んでいる?」

「?」

「君は本当に人間を滅ぼして、植物の世界が来ることを望んでいるのかい?」

「そうさ。それが僕の使命だから」

「でもきっとさっきの植物」

ラナンキュラス

「?」

「あの植物の名前はラナンキュラス

「…ラナンキュラスさんのような植物もたくさんいるはず」

「何が言いたい?」

「うまく言えないけどとりあえず、まだ君たちの世界を創らせるわけにはいかない。でもきっといつかさ」

「まあがんばってよ。じゃあね。芍薬

「…」

 そう言うとロージエはまた夕日に溶けて消えていった。

 やがて梅屋は校長室の前に辿り着き、最後の報告をしに入室した。校長が昼間と全く同じ位置で鮮血が黒ずんだ凄惨な校庭を窓際から見つめている。

「校長先生殿…。聴取が終了いたしました」

「ご苦労だったね」

「つきましては、これ以上の迷惑はかけれない故、この学校を

「君は…。君はあの場にいなかったみたいだがいったいどこをほっつき歩いていたんだ?」

「はい?」

「君がどこかに逃げ隠れている間、赤いヒーローがやってきて、我々を守ってくれたよ」

「あの校長…その赤いヒーローというのがですね

「もし、またあんなバケモノが襲ってきたら大変だ」

「あの…」

「いったいあの赤いヒーローは誰だったんだろうか。警察が全生徒に聞きとりを行ったらしいぞ。「ヒーローの素顔を見た者はいるか」と。しかし生徒の中にその素顔を見たと答えた者は誰一人としていなかったそうだ。無論、私もその顔を見れなかったから彼らにはそう伝えたがね」

「え!」

「梅屋先生。君は見逃したようだがあのヒーローとやら。惚れ惚れするほどかっこよかったんだ。どうしても私はお礼が言いたい。そこでどうだろう。君にはこの学校にいるはずの赤いヒーローの正体を暴いてもらいたいんだ。それまで君のクビは保留しておいてあげよう」

「校長殿…!恩に切ります!ありがとうございます!」

 梅屋は深い感謝の礼を示し校長室をあとにした。校長は赤い夕日に染まるその背中に人知れず敬意を表した。

 誰も傷付けず、戦わずして護る力。わがままな強き者として。

 

 

第23章 -再生編-

第23章 

 

Ⅰ 8月18日② 

 

「Fuck!!」

 放たれる下品極まりない言動。嗜好するは酒。タバコ。ギャンブル。女。加えて足クサ。謎の関西弁。そして上記の要素を全て中和してしまうほどの美しい顔。リリーエーデッルワイスとは実にユニークな存在である。

 ジープに貼られた駐車禁止の張り紙。リリーはそれを丸めて捨てた。下品極まりない言葉と共に。

 ジープは曲がりくねった峠道を猛スピードで下るひまわりはすでに十三回頭を打っている。

「これだけ頭うったら頭良くなるかなあ」

「ナルンチャウ?チョト寄リ道シテエエカ」

「いいよー」

 幽かではあったが下山中に聴こえてきたあの音。明らかな銃声。リリーはダム方面へとハンドルを回す。

 

「Oh...」

 真二つに斬られたパトカー。それに正気を抜き取られたドラセナの弟。確か名前はナツメ。そして辺りには警察と植物の死体がそれぞれ三体ずつ。

 まさかこいつが?ドラセナの弟、才能があっても不思議ではない。

 …いや。これにその力はない。普通に考えろ。すぐそこにあるのは鞘師山だ。彼しかいない。

「コレハ誰ガヤッタンヤ」

 リリーが確信を持ちながらも棗に問う。

「わ私の…いや。わかりません」

「ソウカ」

 兄がこれらを殺したと言えばまたメディアの槍玉。仮定通りの返答。ドラセナで決まり。

 リリーはそれ以上小突かず、ダム管理棟の調査を始めた。

「(チームで行動していた。つまりこれらは暴徒植物ではなく軍隊植物)」

「(だとすればどうやってあの囲まれた要塞からここに辿り着いた?)」

「(そしてなぜ、やつらはこんなところをうろつく必要があった?)」

 リリーはあれこれ考えながら荒らされた管理棟を数枚写真に収め、本部への報告とした。

 

 ジープに待たせていたひまわりと棗、そして一体の植物体遺体を乗せ車を走らせる。

 棗は我々があの山にいたことを知らない。あの惨状を詳しく聴取したいが。まあ後は警察らに任せよう。リリーはひまわりと棗を都内に降ろし基地に帰った。

 基地につくやリリーは上官にダムの現場報告と植物体の遺体を提出した。

 上官の顔が強く引き締まりまずは彼女の功を労う。報告を終えたリリーは惚れ惚れするほど美しい敬礼を添え、上官室をあとにした。

 上官はリリーの報告をすぐに自衛隊と共有。ダムに軍備を配置した。

 植物達の企みの全貌は掴めない。が、植物達が要塞から我々の知らないルートで自由に移動できているとすれば、それはいささか恐怖である。

 

 夜、派遣された小隊が当該ダムに到着する。そこにはすでに謎の物体が数個体配置されていた。

 謎の物体は要塞前での戦闘においてもこちらの味方と捉えて問題ない動きを見せている。しかしながら未だその存在の詳細は判明していない。信用しないように、というのが軍共有の認識である。

 普段通りの夜ならばダム周辺は深淵なる闇に包まれる。が、今夜は軍の設営した強力なライトによりそれはまるでナイターを行う野球場のように闇夜にポツンと輝いた。その灯りを猿山の猿達は物珍しそうに見ていた。

 

 諸々の任務を終え自室に戻ったリリーは倒れるようにベッドに仰向けになり、天井を見上げた。天井にはサンタバーバラの海岸の写真が貼ってある。

 あの植物体三体を倒したのはドラセナだ。強靭な植物戦士を三体も。たった一人で。しかしそのドラセナを瀕死にさせるほどの植物体もこちらにはきている。

 その個体が出てきたら自分達はこんな銃でまともに戦えるのか。いや、無理だろう。リリーは部屋に立て掛けられている自動小銃を見る。

 また天井を見上げる。天井にはサンタバーバラの海岸。波の音は聞こえてこない。

 

 Ⅱ 8月20日

 

 ピロピーロピーピロピーロピー。

 リリーのブカブカカーゴパンツのポケットから日本では聴き馴染みのない着信音が鳴り響いた。リリーが態勢を変え鳴りやまないポケットの中の電話を取り出し、それに応答した。

「Hallo?」

「あ、リリさん。私。牡丹です」

「Oh!牡丹チャン。ドナイシタンヤ」

「あのね…」

 牡丹からの用件は非常にセンシティブなものだった。牡丹によればこれから『花粉症』が始まるらしい。そしてそれが人類の終わりを表すのだと彼女は言った。

「これってどうにかなんないのかな?」

「…ドウニカセナアカンナ。オオキニ。皆ニ伝エテオクヤデ」

 牡丹との通話を切ったリリーはベットから起き上がり洗面所のぬるま湯で顔を洗う。

 排水溝に渦巻く水流。女のうめき声のように音を鳴らして吸い込まれていく。股に挟んだベージュのタオルで顔を拭く。『花粉症』か。嫌だなあ。

 

 正午。降ってないとは決して言えないが傘をさすほどではない。そう思っていると突然雨脚が強まり時に雷鳴を轟かせる。人をおちょくるような灰色の空の下、要塞前に集結した軍人たちは、今日もまた植物達との交戦を始めた。

 リリーはビル屋上からスコープで要塞を覗く。どこまでも続くグレーの天井の下。

 六月のあの日も同じような雲が天井を覆っていた。謎の唐傘ガスマスクと過ごしたあの日。その数日後虹橋が崩された。…今思えばあの怪しすぎる風貌。植物と言われればそうも思える。もしかすると唐傘は虹橋を落とすために下見に来ていたのかもしれない。あるいはすでにソレを済ませ爆弾でもをとりつけていたのか。

 虹橋の爆破について植物界はそれを否定しているが、世論では彼らが進軍の為の陽動としてそれを行ったとする説が支配的だ。

 しかし何でわざわざ虹橋を。あれほどの爆破を起こせるなら国会でも首相官邸でも吹っ飛ばせばいいのに。現に彼らは刀一つで官邸に乗り込んでみせた。爆弾の設置なんて朝飯前なはずだ。

 …そう考えるとやはり陽動という説はおかしい。彼らは敵の中枢にたった三人で乗り込むような自身に満ち溢れた戦士達。それにこの戦いにおいても彼らは終始騎士道を貫いている。暴徒植物に対しても総帥が首相に即時遺憾を示した。そんな彼らが自身から目を逸らすような陽動などする理由がない。

 じゃあ虹橋の爆破は誰が。何のために。

 いや。むしろその騎士道自体がブラフという可能性。いくら騎士道があるからと言って滅びゆく種族の命運を懸けている状況でこんなちまちました戦いを普通は続けないだろう。彼らは自らの騎士道を必要以上に人間に誇示し、植え付けているのではないか。

 すると彼らは何か大殺戮の切り札を隠し持っていると考えるのが妥当。ダムを使って?。単純に考えれば決壊。だがたった一杯の水攻め程度で堕ちる街ではない。そんなことは彼らもわかっているはず。

 思考が煮詰まったリリーは自然と天を見上げた。グレーの天井は本当に、際限なく、どこまでも。

 

「『花粉症』だ…」

 毒ガスか何か。空から撒き散らす。雲中に薬品を散布するのに最も適しているもの。飛行艇。煙突…煙突。湾岸のゴミ処理施設の煙突。確かドデカイ煙突が聳え立ってた。そしてそこに通ずる唯一の手段。虹橋。だから落とした。

 騎士道もブラフ。ダムもブラフ。そして虹橋崩落こそが陽動に見せかけた最大のブラフ。

 煙突の占拠が本命。あり得る。今護るべきはここじゃない。湾岸地区。

 リリーは構えていたライフルを背負いビルを下った。騒ぎにならぬよう直属の上官であるノースポールにのみ無線を送り、至急基地に戻った。

 この任務は正直かなり危険だ。施設がすでに占拠されているとなれば、おそらくこれから衝突する敵は全員ひまわりやドラセナと同じように特殊能力を有した個体である可能性が高い。

 基地につきノースポールら幹部にリリーが概要を説明する。

 飛躍した考察であることは間違いない。しかし確かめに行く価値はある。幹部らはこの作戦を即時可決。ノースポールに今作戦のチーム編成を託した。

 指名された選りすぐりの兵士たち。ノースポールより作戦の内容を聴取する。

「我々の任務は金南清掃工場内の煙突の防衛及び奪還である。施設は現在虹橋爆破の影響を受け運搬不可とされ、都内のゴミは現在他所いくつかの処理場に運ばれるなど対応されており、当施設はほぼ停止状態であるとのことだ。すなわち当施設がすでに占拠されている可能性は十分にある。地点に到着後、煙突、以下A、が未だ敵の手に落ちていなかった場合、我々は今後当施設の防衛に努めることとなる。一方すでにAが敵により占拠されていた場合、我々はAを奪還し、順次防衛に移る。周知かと思うが敵は騎士道を掲げ一対一の勝負を仕掛けてくる。が、我々がそれに応じる必要はない。こちらの世界のやり方を見せてやれ。敵要塞前での戦闘で皆も何体か見たことはあると思うが敵は人知を超えた特殊能力を有している。個人交戦での目標撃破は不可能に近い。我々がこちらはできるだけチームで敵兵の殲滅に努めるように。十三分後。再集合。解散」

 各人は作戦遂行に必要な武装を補填する。あらゆる特殊能力に対応できるよう、彼らもあらゆる化学兵器を突撃用の水陸両用車に積み込んだ。

 

「よし行くぞ。鎌は持ったか!草刈りの時間だ!」

 水陸両用車が唸りと煙をあげて基地を出発した。

 

 基地を出て四十分強。煙突が彼らの目に入る。煙は出ていない。

 水陸両用車は施設への唯一の道であった海上の虹橋の軌跡を止まることなく進んだ。

「これよりAに向かう」 

 清掃工場横に乗りつけた水陸両用車から続々とノースポールらが下車する。チームはそれぞれ二手に分かれ施設への侵入を開始した。

 施設内。人影はなし。静寂。すでに敵の手中に落ちてしまったか。各員の額。汗が一線。

 音を立てぬよう廊下を歩く。銃身を持つ手。力が入る。足音。奥から。

 素早く影に隠れる。音の方。リリーの推測通り。植物体。我が物顔で闊歩。いるはずのない植物体。

 歴戦の軍人達。緊張感を保ちつつ。廊下の別れ道。植物体。彼らに気付かず直進。その瞬間。三人がかり。音を立てず、息の根を止めた。

 一息。

 避けられる戦闘はなるべく避ける。さらに内部へ。辿り着いた。煙突制御プラント。

 階下の制御コンピュータの前を覗く。人間が四、五人。彼らの生かして管理しておくことでこの施設に注目を浴びせぬ為にか。

 同様に植物体は五体。リリーは無線にて、「その中に唐傘を被った個体はいるか」と尋ねる。

 しかし答えはNO。リリーに一抹の不安がよぎる。

 

「!」

 

 無線に断末魔が響く。誰かがやられた。プラント前の植物体もその侵入の報に剣を抜く。気付かれた。彼らの指がトリガーにかかる。

「!!」

 またもや断末魔が響く。今度は無線と耳、双方から。近づいてきている。彼らは正反対の場所にいるはずだ。大人が走っても五分はかかる。まずは作戦の遂行。プラントの奪取。

「リリー状況は!」

「襲われてまーす。みんなバラバラですー」

 散開を強いられるチーム。リリーはからがら退散できたものの、Aからはかなり距離をとってしまった。

 熱反応はなかった。植物体の体温が人間より低いといってもサーマルに映らぬことなどなかった。そういう特殊な個体だったのか。音もなく何人かがやられてしまった。しかし対峙しているのは別に幽霊ではない。必ず姿をみせる。

 

「いったいどこから漏れたのでしょうか。至る所に流木が流れ着いていますね」

 

 リリーの無線に聞き覚えのある声が流れる。

「!」

 ノースポール達が一斉に声の方向に銃口を向ける。彼らの背後。まるで幽霊のように。

「唐傘…!」

 リリーが問うた唐傘を被った植物体だ。 

「イキシア!火炎放射器だ!」

「イエッ

 カチャ。

「!?」

 要塞前の攻防にて火炎がある程度植物体に有効ということは判明していた。しかし。この植物体の前では、それらは悉く不発に終わる。

カtyカチャカチャ

「イキシア!」

「放射できません!!!」

「強靭な植物といえど、燃え盛る山火事の前には無力です。それが雨天以外なら、ですが」

 サピーン!

「!!」

 植物体の右手人差し指から光線のような一筋の何かがイキシアの胸部を打ち抜く。

 ノースポールがイキシアを貫いた先の不自然な痕を見る。銃痕ではない。特殊能力。しかしそれが何かわからない。

「水流とは形のない鋼です。運命のように掴みがたく。運命のように固い」

「クソッタレ!みんな引け!身を隠すんだ!」

 ノースポールが煙幕弾を焚き、隊員らは各員煙幕に身を隠し一斉にそれぞれの遮蔽物に身を引く。

「水の流れは時に目となり耳となり。あなたたちの位置を正確に教えてくれます」

 スパーン!

「!!!」

 視界の少ない煙幕の中、右方から隊員の短い断末魔が聞こえる。ノースポールの足元には隊員の首がゴロリと転がって来た。

「!!クソッタレ!クソ雑草野郎!枯葉剤の風呂にぶち込んでやる!」

 スパーン!

「!?」

 ノースポールの自動小銃を持つ右腕が床に落ちた。ノースポールは戦慄した。落ちた自分の人差し指は確かにトリガーを引いている。しかし着弾音は鳴らなかった。

パラパラパラ…。

 前方で銃弾が地面に落とされる音。顔に滲む大量の汗が一滴、口元へと滴る。味がしない。これは汗じゃない、ただの湿気…!。そうか!こいつは『水分』を操る能力!火炎放射器はこいつの湿気によって湿気た!

 勝てない。強すぎる。人間では無理だ。作戦は失敗した。こいつが形容したように形のない鋼と化した水流は、時にバリアのように自身を護り、時にピストルのように敵を貫き、時に刀のように敵を切り裂く。控えめに評しても…こいつ一人でこの国を乗っ取れ得る!

 煙幕が晴れ、ノースポールの目の前に植物体の姿が露わになる。

 植物体が刀を振りかぶる。ノースポールは胸に十字架を切りと奇跡を祈る。植物体がノースポールの首目掛け刀を振り下ろしたその瞬間、ノースポールの胸元に付帯された無線が一人の声を通信した。

 

「オ久シブリヤナ。唐傘ハン」

 

 植物体の刀がノースポールの首皮一枚で止まった。ノースポールはここがすでに死後の世界だと思い込んだ。

「…その声はあの時のお嬢さん」

「セヤデ」

「あなたでしたか。通りで。私自身が色々と語り過ぎてしまっていた…という事のようですね。自戒せねばなりません」

 ノースポールはようやく自身が未だ存命であることを悟った。しかしリリーと植物体が冷静に会話をしているこの状況についてはさすがに理解に及ばなかった。

「さて。戦う理由は見つかりましたか?」

「理由ナンテナカッタデ。ココハ故郷デモ祖国デモ何デモナイ。ドウナロウト実際ドッチデモエエ」

「では何故その銃を向けますか。この分厚い壁を撃ち抜けるわけでもないのに」

「コレガワシノ仕事ヤネンナ。タダノ仕事。先生、コーヒ屋サン、車屋サン。一緒ネ。ワシノ仕事ハ戦争ナンヤ」

「なるほど」

「ソコニ感情ガアレバジブンヲ殺サヘンヨ。ジブンハモウツレヤンカ。デモジブン虹橋ヲ落トシテモータ。ソレニココヲ占拠シヨウトシテル。仕事ヤカラネ。悲シイケド殺スデ」

「こんなに嬉しいお言葉、久方ぶりに頂戴しましたよ。…しかし虹橋。あれは我々ではありません」

「マタマター」

「考えてもみてください。わざわざここが注目されるようなことをすると思いますか?あの橋を爆破すればせっかく隠密に占拠しようとしていたこの場所を勘づかれてしまう。あなたのような鋭いお方には特に」

「ナルホド。タシカニ

「しかしあなたがこの事実を上官にお伝えすることは残念ながら叶いません。私もあなたを殺さねばなりませんから。…そう言えば名乗っていませんでしたね。私はアルプローラ花陽隊ファルサメリヤンコ副長ハイドランジア。あなたは」

「リリーエーデルワイス少尉。タダノ人間ダヨ」

 『水流のハイドランジア』。彼のアルプローラでの通称である。

 彼は右指先から自在に『水』を発生させることができる。発生させた水を圧縮して放出した際の水圧は凄まじく、強靭な繊維を何層にも重ねる植物体の胴体でさえ真っ二つに千切ることができる。

 豪雨が止め処なくに降り注ぐ湿地帯で生まれ育ったことを事由にこの能力を開花させた彼はアルプローラを代表する特殊工作戦士の一人である。

 彼の能力は正確には大気中あるいは体内中の水素原子と酸素原子から『水分子を生成できる』能力であり、この施設を取り巻く霧も彼が発生させたものである。

「さあリリーさん。私は今から目の前のこの男性の首を斬ります。それが私と彼の運命。さてあなたはそこからこの運命に介入できますか?」

「心配ゴ無用ヤデ」

「いずれあなたも殺しに行きます!」

 

 ギャッギュィーン!

 

「!!」

 ハイドランジアがノースポールの首目掛けて刀を振り下ろしたその瞬間。激しい金属音が鳴り響く。結果を言えば。弾き飛ばされたのはハイドランジアの刀。

「ま、まさか!そんなところからこの分厚い壁をうt

 ハイドランジアが銃弾が飛んできたであろう方向を見る。その壁には針の穴一つも開いてはいなかった。

 スパーーン!

「!!」

 リリーの弾丸は次にハイドランジアの右手を打ち抜いた。リリーは壁の向こうにいるはずだ。しかし彼女には見えている。ハイドランジアの姿がはっきりと。

「…」

 ハイドランジアは弾け飛んだ自らの手を見て何かを悟ったようにノースポールの無線に顔を近づけた。

「…これも運命。まさかリリーさんが妖精に導かれた人間だったとは…」

 リリーの弾丸は分厚い壁をすり抜けハイドランジアを撃ち抜いた。正確に言えば弾丸自体は壁に弾かれたが、その弾丸に乗せたリリーの中に残存するジャミスンの力のみが壁をすり抜けハイドランジアに辿り着いた。

「しかし壁をすり抜ける弾丸とあなたがこちらを透視できる理由は似て非なる現象。何故こちらが見えるのでしょうか」

「教エルワケナイヤン」

「さすがですね…!あなたと私はつくづく会ってはいけなかった!」

「…」

 ハイドランジアはノースポールの身体を盾にするように背負い、リリーの射線を遮る。そしてプラント前に到着した人間軍の残りを狩りに、プラントを上階から覗けるガラス壁を破る。

「ウチモ。違ウ時代ニ出会イタカッタヨ」

「お前の負けだな。植物さんよ」 

「煽りはおやめなさ

 

 ビュキューーーン!

「!?」

 

「ハイドランジア。アナタタチガ強イノハ知ッテルデ。デモナ。ワシモ強インヤデ」

 リリーはノースポール諸共ハイドランジアを撃ち抜いた。弾丸はノースポール胸部の無線機を貫きハイドランジアの頭部を撃ち砕いた。

 そうか。無線機。あの無線機によって仲間の位置を互いに把握できた。確かに私は言った。「私の目の前の男の首を斬る」と。彼女は彼の無線機からそれを推測し、見えぬ私を見たのだ。何という感覚。それにしても上官諸共撃ち抜くとは。とんでもない猛者でした。私の魂もこの死を誉に思っております。

 ハイドランジアは死にゆく意識の中においてもアルプローラの戦士であり続けた。彼は敵であるリリーを讃え、美しく散った。

 サピン!サピン!サピーン!

 リリーはすでにハイドランジアを沈めてから一息もつかず残りの植物の殲滅を始めていた。

 プラント前に辿り着いた隊員らの死闘もあり、間近だった植物界による『花粉症』は食い止められた。

 

 リリーが全ての植物体の沈黙を確認し、その場にへたり込み息をついた。

 この日、リリーエーデルワイスは史上初めて開花済の植物体を撃破した人類となった。

 

「...」

 

 一筋の涙。彼女の頬を伝う。込められた思いは多く。

 彼女が戦う理由。軍人としての責務の全う。だからノースポール諸共。一切の躊躇もせず。それも彼の戦う理由。ハイドランジア。友人になり得た。私たちの戦う理由があった。

 これでよかったのだ。皆、責務を全うしたのだ。これで。

 リリーらが外に出ると雨は止んでいた。しかしリリーの視界は悪かった。まるで水中にいるかのように。くすんで。

 

第22章 -再生編-

第22章

 

Ⅰ 8月19日

 

アネモネが討たれました」

「我々が要塞から羽を伸ばしていることが人間共に知られたか」

 アネモネの失策。それは彼らにとってかなり大きな痛手となった。要塞内で次の一手を議する一方、要塞の裏手にて異なる欲望の手がうたれる。

 

「警備中失礼します」

「誰だ貴様は!」

「まあそうかっかなさらずに。お聞きしたいことがあるだけなんです」

 要塞の裏手を警備していた植物戦士が剣を抜き異邦者に斬り掛かった。

「強い人間のこと御存じでしょうか?…まあ答えてくれなくても結構です。『意識さえ』して頂ければ…。…そちらの質問に答えていませんでしたね。…クラステル・アマリリスと言えばお判りになりますでしょうか」

 クラステルは真っ二つに切られた植物戦士の胴体に近づき、頭部に右手をかざした。

「皆口を開けば名を答えろと。自由に偽れる名などに何の意味があるというのでしょうか…。その点、『記憶』は…誰にも偽れません。へえ…。妖精が人間を導いたってわけですか」

 騒ぎを聞きつけた応援が要塞から出てくる。クラステルはすぐに腰をあげその場から退散した。

 

 

 来週末、大手アイドル芸能事務所に所属するアイドルが一堂に集う大型イベントが東京臨海部にて開催される。

 桜田牡丹も当事務所に所属しており、彼女は事務所の人気アイドルグループ『アフタヌーン』のメンバーでもある。

 さて、その大型イベントを一週間後に控えた今日はその前哨戦と言うべきか、『アフタヌーン』単独でのライブイベントが東北三県で行われた。

 夏休み返上で連日仕事をこなす牡丹は心身疲れ切ってはいたが、アイドルでいられる自分の境遇に強く感謝をしていた。

 メンバー控え室ではメンバーが程よい距離感で各自メイクやら衣装合わせやらで普通の女の子からアイドルへと変身していく。

 まあしかし、ここにいる誰がこのスーパーアイドル桜田牡丹ちゃんがちょっと前まで夜な夜なヒーローというお面も被っていたと気付き得るだろうか。否、それには誰も気付けまい。伊達に長年桜田牡丹の鎧を被ってきていない。例えそれが親だろうとしても、それに辿り着くのは決してありえないのである。

 場所が東北であろうとも牡丹に握手を求めるファンは多い。

 彼女は朝から晩まで休む事無く『がんばって身だしなみを整えてきたんだなあ』という男性や『この牡丹ちゃんにさぞ憧れているんだろうなあ』という女性らと交流した。

 

「牡丹ちゃんってヒーローでしょ?」

 

 牡丹は瞬時に目の前の中肉中背の男の顔と声、そしてその衝撃的な動悸を上げた。

 牡丹が内心を見せぬよう冷静にそれを否定する。設けられた彼の数秒の持ち時間はすぐに終了し、牡丹と男性はその後一つのキャッチボールも許されずに男性はブースからハケていってしまった。

「あの野郎もう一度まわってこいや!」。長いアイドル人生で牡丹は初めてそう思った。しかしこの日男性がもう一度牡丹のブースに現れることはなかった。何だったんだあのおt…次のファンはすぐにやってくる。彼女の考察を止まった。

 

 帰路の新幹線。考察の再開。なぜあの男性が自分がヒーローであることに気付き得た。もしか妖精が見えるのか。あり得る。もういないけど。

 確信を持てる答えを導けないまま、牡丹は自らのマンションのオートロックに鍵を挿した。

 

「牡丹ちゃん!」

 

 右方から自分を呼ぶ声。懐かしい感覚。牡丹が右を向くとそこには妖精ロッタがほのかなピンク色の光と香りを漂わせ浮いていた。

「ロッタ…何してんの」

「牡丹ちゃん…あのお…ごめんね」

「あんたがいなくてめっちゃ大変だったんだからね!」

「ごめんごめん」

「でももう気にしてないからいいや」

 二人は会話を続けたまま、牡丹の部屋にあがった。

 今日の帰宅はかなり遅く時刻も午前一時を回っている。ひまわりもグースカと牛のように眠っている。

 牡丹は汗ばんだティシャツを洗濯籠に投げ捨て、続けて下着も外し、浴室に入った。

 牡丹が何か思考を巡らせていることは明確。何故ならいつもはシャワー中に鼻歌を奏でる彼女が黙々と頭皮を泡立てている。

「ねえ、牡丹ちゃん」

「びっくりしたあ!なんでシャワーまでついてくんのよ!」

「いいじゃない久しぶりなんだから。それよりね、私はやく帰らなきゃばれて怒られちゃうからそのまま聞いて。用件だけ言ったら帰るわ」

 牡丹はとりあえずロッタの好きなようにさせた。

「植物界の戦士たちが人間界を制圧する準備が整ったわ」

 牡丹の髪を泡立てる指が二秒ほど止まった。

「これから『花粉症』が始まる。そうなればこの街の人々はもがき苦しみ死んでいくことになる。アルプローラと同じようにね」

「それって…私に言っていいの?」

「わからない。でも…。この先は牡丹ちゃんに任すわ!じゃあまたね!」

「ちょっと!ロッタ!勝手すぎるんだけど!」

 牡丹の呼びかけが返ってくることはなかった。牡丹はとりあえず昼間の男性のことは置いておいて、脱浴後すぐにこの事実を自分の知り合いで最も軍事力のあるリリーに伝えた。

 あれこれしてたら外はもう明るい…。早く寝なくては。お肌に悪い。

 

 聖木を成就させた妖精たちはその後カーネーションにより聖園に軟禁されていた。妖精と人間との間に生まれかねない友情を懸念しての処置。

 しかしおてんばロッタは知っていた。人間界に繋がるもう一つの空洞の存在を。

 その空洞はロッタとクリプトメリアしか知らない極微の空洞である。クリプトメリア曰く、数年前に人間界で発生した大地震の際に生じた表裏世界同士の歪みからなるものだという。

 噂好きの妖精から花陽隊の作戦を耳にしたロッタは、その穴から再び人間界へと舞い戻った。

 牡丹を気遣い用件だけを伝えたロッタは久々の煌びやかなる夜の東京に目を眩ませた。

 このネオン街ももうすぐ自然に還ってしまう。妖精なりにセンチメンタルに行き交う人々を眺めた。

バシュ

「!?」

 ロッタの小さな体が突然何者かに掴まれる。人間界でそんなことが起きるはずがない。何故なら自分の姿は人間には見えないはずだ。ロッタは自分を掴む手から伸びていった先にある御尊顔を見た。

 ロッタの眼に映ったのは人間ではなく、冷たい顔をした植物だった。

 

Ⅱ 8月27日

 

 牡丹はひまわりの早起きの才能に関しては一目を置いている。見るからに寝坊しそうな身なりなのに、彼女は毎朝蝉が目覚めるよりも早く起きて畑に向かう。

 しかし今朝に関しては久方ぶりに寝起きのひまわりの姿を拝むことができた。 

 今日はイベント初日。疲労が残存する身体にムチを打ち、彼女はひまわりの焼いたトーストを一枚おなかに入れた。

 準備を済ませた二人は最寄りの駅まで一緒に歩く。二人が乗り込んだ早朝の電車は彼女ら以外に人影はまばら。二人は朝から続く他愛もない話を誰の目も気にせずしばらく続けた。

 牡丹が乗換駅で下車するとひまわりを乗せた電車は西方面へと消えていった。

 その後二回の乗り換えをこなし会場についた牡丹。いつも通りのメンバーといつも通りのくだらないやりとりをいつも通りに済ませ本日のライブリハーサルへと向かった。

 

 時刻は午前十時。大型イベント会場の扉が開き、夏休み最後のイベントが幕を開ける。

 初日はライブやを行わず各種イベント及び交流のみ。しかしライブに負けずとも劣らぬ熱気が会場をすぐに充満させ屋内の酸素は顕著に薄くなった。

 牡丹の考えはただ一つ、先週の東北の男性が顔を見せ次第口止めする事。

 物心ついた時からアイドルとしてこの業界に入った牡丹はファンの扱いには慣れていた。こういう場合、ファンには特別感与えることが重要である。

 定石ならば漏らしたくない情報を必死に否定、あるいは無視を決め込むかの二択であろう。ただ牡丹の場合、情報をあえて肯定したうえで「二人だけの秘密だよ」などという言葉を語尾に添える。するとそのファンは自分と牡丹との間に特別感を見出し、その秘密を永久に内密にしてくれるのだという。

 「かかってこい!」牡丹が再び念を送る。その時。

 

「逃げろー!」

 

 念が変なものを呼んでしまったのか。その断末魔は鮮明ではなかったが、確かに聞こえてきた。牡丹はブースを飛び出し、騒ぎの方向をファン達と一緒に覗き見た。

 聳えたつ人の壁により状況がよくつかめない。牡丹はちょっと高いところを見つけては、逃げ惑うファン達の流れに逆らって登った。

 …ふと俯瞰で自分を見つめる。流れに逆らってる自分は他からどう見えている。ボーイッシュで売り出し中のあの子も女の子らしい可愛い叫び声を上げて逃げている。

 …もしかして私はこれまでにも自分が気が付かない内にそのような、『ヒーローが取り得る』行動をとっていたのか?だからあの男もそれに気付き得たのか?

 あ見えた。あれはテレビでやってた暴徒植物。戦士の身なりじゃない。

 牡丹台から降りる。…みんなを助けなきゃ。ロッタの力はもうないけど。けど今この場でその勇気があるのはきっと私だけだな。うん。この牡丹ちゃんだけだ。でも死にたくないなあ。でもきっと死ぬだろうなあ。逃げちゃおっかなあ。実際逃げても誰も文句言わないんだよなあ。でもなあ。

 彼女は会場に狂気が渦巻く中、一人目線を下げて深い自問自答に浸った。

「?」

 彼女がふと意識をこちらに戻す。彼女の百五十後半の身体がいつのまにかよく見るファン達によって三百六十度取り囲まれている。その中には東北のあの男性の姿もあった。

「みんな何してるの…早く逃げなきゃ」

 牡丹の喚起に一人のファンが背中を向けて返した。

「大丈夫。もうすぐヒーローが現れて俺たちを助けてくれるはずだから」

「え」

「そう、俺たちはその時を待ってるんだ」

「ヒーローは必ずやってくる」

 いつもは手や声が震えている人、自分のことだけを話す人、汗っかきな人、中年や小太りやハゲ、大学生にチャラ男にどうしようもないおっさん、あるいは自分と変わらないくらいの女の子…。みんながいつもより大きく見える。

 そうか。もうみんな気付いてたんだ。そして勇気と覚悟を決めている。同様にそれを決めたことがある牡丹はすぐに皆のそれを悟った。

「もし、誰かが俺たちの後ろでヒーローに変身したとしても、それに気付く奴は誰一人いないだろうね」

「でもねみんな私もう…」

「大丈夫。ヒーローは来る。必ず」

 この人たちのしょうもない人生を自分が支えてあげている。そう思っていた。でも違う。肉親でもないの自分の為に日本全国、時には海外まで足を運び、大金をはたき、人生を捧げてくれているこの人達。親でもマネージャーでもメンバーでも気付き得なかった私の秘密に辿り着いた愛すべきこの人達こそが、私をアイドル『桜田牡丹』でいさせてくれる唯一の存在。

 パニックに陥ってもおかしくないこの状況下で仁王に立ち、みんなが創り上げてくれた『桜田牡丹』という概念ただ信じて待ってくれている。中には足が震えている人もいる。そりゃ怖いよね。でももう大丈夫!みんなに恥はかかせない!みんなを絶対に死なせない!みんなは私の大切な宝物だ!私が絶対守る!

 牡丹とファン達の間にはもうありがとうなんてちっぽけな言葉はいらなかった。牡丹は目をつぶり、体内に残存した僅かなロッタのチカラを呼び覚ます。

 来る。ヒーローは必ず来る。私の身体に。必ず戻ってくる。山脈の如く立ち並んだファンとファンの間から木漏れ日のように桜色の淡い光がもれた。

「みんな。行ってくるね」

 ファン達は皆一斉に小さくうなずき、桜色に光るヒーローを狂乱の中心へと送り出した。

 

「!!」

 ダン!

 牡丹は勢いのままに暴徒植物体を蹴り飛ばしコンクリート打ちっぱなしの壁に激しく打ち付けた。植物体は完全に油断していたが、もし植物体がその攻撃に身構えていたとしても結果は同じだっただろう。

 状況把握に戸惑う植物体を余所眼に先ほどまで彼によって狂気に満ちていた会場は桜色のヒーローの登場に大いに沸く。

 逃げ遅れた人達が、あるいは一度は逃げた人たちが再び戻り、桜色のヒーローの一撃毎に歓声を上げた。

 牡丹の攻撃は止まらなかった。牡丹はキックボクシングのレッスンで得た功でなく、何か心の奥底から湧き上がる底知れないパワーで群衆を狩る植物体に立ち向かった。

 幼稚だった自分に、一人で人気者になった気でいた自分に、そして本当は何も出来ない情けなさに彼女は羞恥した。

 彼女はそれを八つ当たりにも似た華麗なコンビネーションに昇華させ、トドメの延髄蹴りを植物体頭部に炸裂させた。

 植物体の頭部が吹っ飛び、植物体が完全に沈黙する。

 

「!!!!!!!」

 

 会場はライブでは聞いたことのないほどの歓声に包まれた。

「そんだけ声出んならもっとライブで出しなさいよ!」

 桜色に包まれた牡丹はその歓声に怒った。しかしそれが誰かに届くことはなかった。

 牡丹が顔を和らげ、ずっと見守ってくれていた自らのファン達の方を向く。彼らは牡丹にしかわからぬくらいに小さく首を横に振った。

 ここで桜色のヒーローと彼らの関係が勘づかれてしまっては彼らの心意気が水の泡となる。牡丹はまた彼らに助けられてしまったと、彼らの方から目線を外した。

 牡丹があちこちで鳴るシャッター音や鳴りやまない歓声を浴びながら、人目のつかないところへ逃げようと足に力を入れる。

「」

 

 もう聞こえるはずのない断末魔。再び牡丹の鼓膜を揺らす。

 感じたことのない強い悪寒と殺気。背中に。悲鳴の方を振り向く。真夏の気温を歪ませるほどの冷気。深紅の植物体。

 何だこの気持ち悪いオーラは。あの日対峙した戦士達、今倒した暴徒とは全然違う。強いとか怖いじゃない。教室に零れた牛乳を拭いた雑巾のような。ただただ気持ちが悪い。

「やっと会えましたね」

「え!?ストーカー?」

「まああなたを追い求めてここに来た、ということをストーカーと言うのならば私は立派なストーカーですね」

「何それきっしょ。…つーかあんた誰よ!いくら私が種族を越えて可愛過ぎるからって植物につけられる覚えなんて全然ないんだけど!」

「クラステル・アマリリスって言ってもわからないですよね。まあこれを見て頂ければ話は早いのではないでしょうか?」

「…!!」

 クラステルは縛り上げたロッタを懐から取り出して晒した。ストーカーっていうのは冗談でも何でもない。こいつは本当に私に狙いをつけてやってきたんだ。それを理解した牡丹は背後のファン達に叫んだ。

「みんな!逃げて!」

 それでも先ほどの歓声に気をよくしたのか。もしくは牡丹の暴徒に対する圧倒的強さに慢心しているのか。それとも牡丹と心中する気なのか。彼女のファンの大半はそこに留まった。それに怒った牡丹はクラステルから完全に背を向け大きな身振りで再び叫んだ。

「早く逃げろっつってんでしょ!アイツはマジでヤ

 ブシャーン!

「!?」

 クラステルの剣は彼女の背中を切り裂いた。牡丹は声も上げずその場に倒れた。

 勇敢な彼女のファンらは怒号をあげ、丸腰でクラステルに立ち向かう。

 クラステルはこの時ひどく興奮した。一太刀を浴びせるだけで、虫のように醜い人間が沸いてくる様が愉快で仕方がなかった。そしてそれを一人づつ丁寧に捌いていく爽快感はアルプローラでは感じ得ない快感だった。

 イベント会場の一角に死体の山が築かれていく。それは大不幸中の幸いにも、牡丹がヒーローであることを隠蔽した。

 クラステルはこの時盲目的に殺人に夢中になっていた。背後からの刺客に気付き得ないほどに。

 

 ジャキン!

 

 鋭い音とともに、乱れるように舞うクラステルの剣が止められる。クラステルはその受け筋に身に覚えがあった。

「また、あなたですか」

 クラステルが太刀筋だけを見てその持ち主を悟り呆れるように罵る。

「お前が逃げるからだろう?」

「…いいでしょう。あなたを殺して、そのとぼけた頭の中をじっくり見させてもらういますよ」

「お前に剣というものを教えてやる」

 ラナンキュラスだ。私が言えたものではないがしつこい奴だ。二者の間合いに空気が張り詰める。しかし。クラステルはまたも突然剣を鞘に納める。

「!」

「今、私が逃げたらどうなるでしょうかね?」

「あ?」

「このおバカな人間達に、植物の正義と悪ができますか、ということです」

 

 ババッバン!

「!?」

 クラステルが逃げる。無数の焼夷弾ラナンキュラスを焼く。

 人間軍が来ていたのか。クラステルが殺人に夢中になり私に気付かなかったように、私もまたクラステルを仕留める為に神経を集中させ過ぎた。その接近を悟ったクラステルはそれらが入場するタイミングで大窓から逃げた。今来た人間からしてみればこの惨状を創ったのは紛れもなく私。…やるなあ。

バララララアッララ!

 初弾を受け止めても尚立ち上がるラナンキュラスに機動隊はさらに数百発の弾丸を撃ち込む。ラナンキュラスが血反吐を吐きその場に倒れる。

 機動隊が動かなくなったラナンキュラスに恐る恐る近づく。

 サク!

「!?」

 ラナンキュラスは突然腰に差していた短刀で機動隊員の一人の足を斬り払い、その者を盾とし立ち上がった。

 機動隊は発砲を躊躇。ラナンキュラスは機動隊を牽制したまま、クラステルが破った大きなガラス戸から会場を抜ける。

 ラナンキュラスの歩いた動線。盾にされた人間の血とそれではない体液。機動隊員がそれを辿っていく。両足首から下を切り落とされた機動隊員。港の波止場に浮かぶ。植物体の姿はもうない。

 盾とされた機動隊員は一命を取り止めた。が舌を搔っ斬られており、彼らにすぐの追跡を妨げさせていた。

 

 幸せで満ちるはずのイベント会場は血飛沫が飛び散る凄惨な現場へと姿を変えた。植物関連の事件で最も多くの被害者を出したこの殺戮劇は日本中を震撼させる。

 さらにアイドルの桜田牡丹がその犠牲者となったことをマスコミは嬉々として記事にした。

 梅屋の元にもすぐにその速報は耳に入る。牡丹という存在は、梅屋にとってヒーローとして共に戦った仲間である以前に、最愛の生徒の一人でもある。

 牡丹が植物にやられた。梅屋は今何を思うのか。それでもまだ。

 

第21章 -再生編-

第21章

 

Ⅰ 7月2日

 

 まだ梅雨の雨が世界をどんよりと煌めかせていた頃。都内の某大学病院に一人の青年が緊急搬送された。

 雷に撃たれたように身体をドス黒く爛れさせた瀕死状態の青年は、医師たちの懸命な応急救命により紙一重で一命を取り止めた。

 搬送された当初、青年は彼の身分を証明するものを何ひとつ所持していなかった。よってこの青年の身元の特定にはDNA検査が用いられた。が、それは図らずもかなりにセンシティブな結果を界隈にもたらした。

『苔石家』。この青年のDNAが導き出した答えである。苔石家といえば日本医療界を代表する由緒正しい家柄である。

 警察はすぐにこの少年の身元を苔石家の長男棗と特定するがそれはすぐに誤りであったと判明する。

 この青年が運ばれてきたのは二日ほど前。しかし棗はこうしてる今も家のリビングでメイドの淹れたルイボスティーを優雅に嗜んでいるというのだ。

 ではこの青年は誰なのか。病院警察両者はすぐに苔石を病院に招聘した。

 数時間後。病院に訪れた一人の女性は警察の事情聴取を受けた。

「苔石さん。あの男性に心当たりは?」

「…」

「おかしいんですよね。あの子のDNAは確かに苔石さんのお子さんであることを示しています」

「…」

「しかしいくら苔石家の出生記録を掘り出してみてもあの子の記録はありませんでした」

「…」

「どうでしょうか。棗くんが雷に撃たれて二つに別れててしまったのでしょうか」

「…」

 終始無言を貫いた女性は一時間弱の聴取を終え部屋を出た。女性が青年の顔を見ることは一度もなかった。苔石家は何かを隠蔽をしている。一目瞭然だが。

 

Ⅱ 8月17日

 

「青年が意識を取り戻しました!」

 搬送から約一か月半、苔石家の強固な隠蔽により未だにその名を明していない青年は、ついに死の淵から意識を復活させた。

 医師は一つの命が蘇ったことに。警察は絡まる謎がやっと解けるということに歓喜した。

 しかし歓びも束の間、彼らは青年のある異変に気が付いてしまう。

 落雷のショックによるものか、あるいは先天的なものなのか。彼は全く口の利けない聾唖であった。

 現場にあらゆる仮説が乱立する。そんな中、看護師が目を離した一瞬の隙、あろうことか青年は病院から脱走した。 

 

 

 午後十時を過ぎた頃。牡丹が仕事から帰宅すると、はだけた入院服から露わになった胸元に、尋常でない火傷跡を残したドラセナがひまわりの膝の上で意識を失っていた。

「…生きてんの?」

 素直な疑問が咄嗟に出た。うなずくひまわりを見て安心するのと同時に、やっぱり植物には全く歯が立たないのだということを改めて悟った。

「私たちの匂いを辿ってきたのかな」

 ひまわりは牡丹に玄関の前でドラセナが倒れていたことを説明した。

 この家に男が入っていることがバレたら終わるなー。この子いつも土足…っていうか裸足だったよなー。いやだなー。お風呂にぶち込んだらあのキズ沁みるかなー。などとひまわりの話半分に牡丹は血も涙もない事をあれこれ考えた。

「ドラくんってB型なんだねー」

 ひまわりがドラセナの腕に巻かれたタグを見て言った。

「これ名前じゃない?読めないけど」

 牡丹がひまわりの示したタグ。『苔石』という文言が記されている。牡丹の中に様々な憶測が広がったが、まずは上の漢字の読み方を調べた。

「ぼたちゃん、もう一人呼んでもいい?」

 「こいつはいったい何を言っているんだ」牡丹はそういう顔でひまわりを見た。それを断固拒否する牡丹。部屋のインターフォンは無情にもこんな夜だというのに鳴り響く。

「もう呼んじゃってた!」

 えへ。ひまわりは無邪気に言った。牡丹はひまわりを鬼の形相で睨み捨てインターフォンのモニターを覗く。するとそこには一人の美しい西洋人が立っていた。

「Hello」

 何故ひまわりにこんな知り合いがいる。どうせひまわりに聞いてもロクな答えは返って来ない。牡丹は仕方なくその女性を招き入れる。

 

「リリーエーデルワイスヤデ」

 ガラスのように細く透き通る声、ブロンドの髪、蒼い瞳、引き締まった体、ほどよい胸。牡丹は上京してたった五ヶ月のひまわりの恐るべき交友関係に戦慄した。

「リリさんはね、六人目なんだよ!」

 ひまわりの拙い説明とリリーのわかりやすい解説により、牡丹はこの女性が以前自分とひまわりを助けてくれた命の恩人だと知る。

 リリーは自分が軍人である事、白い妖精に導かれたこと、あの雨の日はそれどころではなかったことをヘンテコな日本語で語り、牡丹もそれと交換するように、自分たちが妖精に騙されていたこと、植物界が侵出してきたこと、妖精の力がなくなりもう戦えなくなったこと、あの時雨が冷たかったこと等を話した。

 それに加えて、そこに横になってるのが緑のやつで、猿山に暮らす男の子で、植物か何かとの戦いに負けたみたいで。と、なるべく簡単な日本語を選択しリリーに現状を伝えた。

 ひまわりも昨日の畑での出来事を二人に話そうと思ったが、話に割って入ることができずに諦めた。

 リリーは終始深刻な面持ちで牡丹の話を聞いた。三人の事情を大体把握したリリーは、明日の朝にドラセナを山へ届ける約束をとりきめた。

 牡丹がリリーはこのまま帰るのだろうと、スマートフォンで見送りの英語を検索する。

 と、彼女はあろうことかひまわりやドラセナと一緒に居間で眠り始めた。これが異文化か。牡丹は見せつけられた世界の広さにぐうの音も出なかった。

 

Ⅲ 8月18日

 

 翌朝。警察は遂に苔石家当主とその妻の任意同行を執り行った。同時に目撃情報と妻の証言を基に、彼らは都内最西方の鞘師山周辺の捜索を開始した。この捜索には『現時点での』長男である苔石棗も参加した。

 同刻。眼を覚ましたドラセナはひまわりの説明により行儀よくリリーの車に乗り込んだ。

 ひまわりも車に乗り込み、リリーは三人を玄関まで見送る牡丹の頬に軽いキスをした。

 三人を乗せたオリーブ色のジープは軽快に高速道路の風を切る。

 都内から二時間ほど西に行くと鞘師山連山にぶつかる。その中腹部は人も立ち入らず、原始の姿を現代に残し多種多様な動植物達が住処を形成している。

 サボテンらこの山のニホンザル達は、鞘師山の南壁部に集落を築き、ある程度の文明的な生活を送っている。

 彼らは言語を操り、外敵や困難を協力して乗り切り生活している。

 十数年前の大雨の日。一匹の若い猿が人里から近い麓付近で雨にうたれる独りの人間の幼児を発見した。

 自らの存在を知らせるための泣き声は、激しい雨音にかき消されていた。

 木陰から見るにその幼児の近辺に親の姿はなく、その子が捨てられた子なのだとすぐに察した。若い猿はこの幼児を集落に持ち帰った。

 ある日。一匹の乳母猿がこの幼児のある異変に気付く。どうやらこの幼児は耳が聞こえないようであると。

 そうなると彼を人里に戻したところで、彼が親元に辿り着蹴る可能性は限りなく低い。そのまま野垂れ死なせるくらいならと、猿達は幼児をこの集落で育てていくことを決めた。

 幼児は『ドラセナ』と名付けられ、他の猿達と同様に育てられた。

 ドラセナはやはり人間で、彼の身長は首長猿を追い抜き、すぐに集落一番の高身長となった。

 食べる量も桁違いで、彼の毎日の食糧を確保するためにも、猿たちはすぐに彼に狩猟を教えた。

 ドラセナは前述の通り聾唖であるが、神の補填というべきか、彼は狩猟の際、異常な能力を発揮した。

 彼は土中、あるいは樹木に巻き付く弦や蔦を自在に操る事が出来たのである。これは他の猿らが教えたものでは決してない。猿達の中には彼を神の使いだと崇める者も出てきた。

 聾唖の人間である彼にも猿の友達がたくさんいる。中でも同じ齢のサボテンとは非常にウマが合うらしく、彼らはいつも一緒に過ごしていた。

 さて、話を現代に進めたうえで時を五ヶ月ほど前に戻す。この頃よりドラセナは頻繁に山を下るようになった。

「妖精に導かれたらしい」

 サボテンは皆にそう説明したが、それは他の猿たちにとって心配を加速させるだけだった。

 それからすぐにドラセナの元に二人の人間が訪ねてくる。最終的にドラセナを連れて帰らずに山を下っては行ったが、この集落が人間に見つかったことは重大な問題である。

 集落の長老たちは集落移動の是非を議論したが、サボテンら若い猿らによれば、彼らに害はないとのことだった。

 いずれにせよこの集落を移動させるとなれば他の集落、他の動植物との争いは避けられない。猿たちは議論の末一旦はここに留まることを決めた。

 下界から帰ってくるたびに、どこかしらに怪我を負って帰ってくるドラセナを猿達は心配した。しかしながら彼の生命力は猿たちの考慮の範疇を優に超え、彼はまたすぐに下界へと下っていく。

 何が彼を突き動かすのか。そして一か月ほど前から、遂に彼は帰って来なくなった。

 そして今日。集落に以前やってきた人間の女と以前の男とはまた別の人間が酷く傷ついたドラセナを連れてやってきた。

 山の麓でひまわりらを出迎えたサボテンはドラセナの様態を気遣った。ひまわりが事態をサボテンに説明する。二人の会話が終わるよりも早く、ドラセナは集落へと登っていった。

 サボテンに見送られひまわりとリリーは山を下った。二人は下道に近づくにつれ、パトカーのサイレン音が大きくなっていくことに気が付く。

 リリーが崖の縁に立ち、下を覗く。すると多くの警察がこちらに入山してくる姿が見えた。

「なんだろうね?」

「Fuck!ジャパニーズ駐禁ヤ!」

 リリーが声を荒げる。しかしあの大所帯、どうやら駐禁ではなさそうだ。

 リリーは冷静を取り戻し、憶測ではあるが、おそらく病院から逃げ出したドラセナを探しに来たのではと考察する。

 ここでもし見つかってしまえば…。各所の立場を考慮し、リリーはひまわりとともに山に潜り警察から身を隠した。

 

 ほどなくして警官らが山を登ってきた。

 森林の陰で警察の動向を伺っていた二人の目線の先を警察と警察犬が通る。警察犬はもちろんすぐにドラセナの匂いがたっぷりついた二人の存在に気が付く。

 警察犬がこっちを向く。リリーが天を仰ぐ。しかしひまわりは冷静だった。

「大丈夫だよリリさん。あそこは通れないから!」

 リリーが首を傾げたその時、ガシャンという音とともに警察犬の足は紐で括られ、宙に浮き上がった。

「Oh」

「お猿さんたちはみんな頭がいいから」

 その後、警察や捜索隊たちは次々と猿たちの罠に捕らわれ、ものの三十分もしないうちに文字通り一網打尽となった。

 ひまわりと梅屋が捕らわれた時と同様にすぐに猿たちが彼らの元に駆け寄り、彼らを集落の処刑場へと連行しようとする。 

 

 ズキューン

 

 森の鳥たちが一斉に飛び立つ。

 一人の若い警官が、一匹の猿を拳銃で撃ち抜いた。

 猿たちは統率の取れた集落の猿から獣のそれに眼の色を変え、その若い警官に襲い掛かる。他の猿達もそれに続く。また手の自由の利く警察は、次々に猿達を発砲した。

 

「強いって、なんか弱いよね」 

 少し遠くではあった。しかし命の終わりを感じるには十分の距離だった。ひまわりはただ悲しい目で猿と人間の乱闘を見つめていた。

 リリーがひまわりの頭を撫でる。おそらく世界で唯一、猿と警察の仲介が可能なのはこのひまわりのみだ。

 ひまわりがリリーの掌からそれを察し、乱闘の元へと歩もうとしたその時、銃声が一斉に止まった。

 警察と猿たちはみな一点を見つめている。その目線の先。西日を後光とし、岩の上に立つドラセナの姿。

 

「…」

 

 警察の拳銃。よく見てみればドラセナの蔦により無力化されている。猿達も同様に。ドラセナは一瞬にしてこの場を支配したのだ。物理的、また非物理的に。

「兄さん…!」

 縄で括られたドラセナによく似た青年。彼の姿を見て言った。ドラセナもまた、彼の顔をじと見た。

 張り詰める空気。山の中腹。例えドラセナの蔦が無くともその場にいた猿達や警察らは二人の時間を妨げることができなかっただろう。

 棗は苔石家の長男であり、御曹司としてた両親に大切に育てられた。一流の学校に通い、一流の友人らと過ごしてきた。しかし先日、自分に双子の兄がいることを知らされた。

 両親は警察に連れていかれ、彼の人生はまさにこれから劇的に転げ落ちようとしている。しかしそれを彼はチャンスと捉えていた。

 不自由ない『苔石家の御曹司』という看板がハズレ、これからは『苔石棗という一人の人間』として世間で正当に評価されていくことに彼はむしろ希望を見出していた。

 そんなものは本当の絶望を知らない世間知らず御曹司の戯言でしかないのだが。

 彼の薄っぺらい覚悟を見透かすように、ドラセナは棗を鋭い眼光で見下し続ける。

 上述の通り誰にも介入でき得ない一発触発の睨み合い。棗が遂に均衡を破り口を開く。

「兄さん。一緒にやりなおそう」

 棗は。この兄が聾唖である事すら知らなかった。ドラセナが置かれた絶望的状況も何もかも。それでも彼は血の繋がりというそれだけを抵当に入れ、兄がこちらに帰って来てくれると心の底から信じていた。

 棗が繰り返しドラセナに問う。もちろん返事は帰って来ない。

 棗が三度目の問答を投げかけた時。大きな葉っぱで顔を隠し、目部と鼻部だけを刳り貫いた一人の女性が二人の間に入った。

「…あなたは?」

「彼は耳が聞こえません。何か彼に伝えたいことはありますか?」

 その女性も棗の質問を無視し、逆に棗に問うた。

「…両親の悪行を謝罪させてください」

 棗が状況に戸惑いながらも女性伝える。女性はドラセナの方を振り返り、奇妙な身振り手振りでそれをドラセナに伝えた。それが終わると、彼女は再び棗の方へ回れ右。

「伝えました。他には?」

「一緒に暮らそう!とお伝えください!」

 女性はまた振り返り、へんてこな身振り手振り、時には宙に絵を描いたりした。

 ドラセナが首を振る。棗も食い下がり、一緒に山を下り、もうすぐ終焉を迎える苔石家を二人でやり直そうと熱弁する。

「ウキウッキウキ」

 彼の熱弁に答えたのはサボテンだった。

「ウクキキウッキ?」

「ウククウキキコウッキウコウカッキウキ」

「ウッキ。…この人間は自分たちの家族だ。とこのお猿さんは言っています」

「猿語がわかるんですか…?」

「ウキウキウッキキウキウクキ」

「今日のことはもういいから、もう二度とここへ来ないと誓ってください。とこのお猿さんは言っています」

 サボテンが猿らに合図を送る。すると猿たちは、警察らに巻かれた縄を解きはじめた。 

 その際警官を威嚇する者もいたが、その者はすぐにリーダー格の猿に咎めらた。

 二名の警察官と一名の捜索隊、そして五匹の猿の命が今日ここに沈んだ。

 棗は苔石家の過ちにより各所に多大なる迷惑をかけた。人も死んだ。これが彼が最初に受ける『苔石棗』として正当な評価となる。

 

「最後にあなたのお名前を伺ってもいいですか」

 山を下る直前、棗は俯きながらも女性に尋ねた。

「ヒマ・ド・太陽三世です」

 答える気のないその女性の回答。棗の肩の力が少し抜けた。

 

 パトカーは山道を下り、開けたダム部を走り東京へ向かう。棗は背にした鞘師山を車内から振り返った。

 兄さんは聾唖だった。それだけの理由であの山に捨てられた。齢一歳で。

 棗は押し寄せる鞘師山の強大な迫力に思わず目を背けた。

 ドーン。棗が視線を前にやったその時。背後で何かの振動音が響いた。

 警官らが一斉に外に出る。奥に見えるはダムの管理棟。砂煙が上がっている。

 警官らは棗に許諾を得て、すぐに現場にパトカーを急行させた。

 

 ダムの淵。変わった様子はない。警官らが下車し管理棟へと歩む。しかし警官らのそれは二十歩も満たないところで急停止し、皆一斉に腰のホルスターに手をかける。

 棗はパトカー車内から彼らの目線の先を覗く。そこには、テレビで見た、三体の植物生命体。

 警察官らが植物体に向けて無条件に発砲を開始する。彼らはそれが植物体に効果を認めないことをもちろん知っていた。

 スパーン!

 間もなく、植物体は警察官三名を斬り裂いた。銃声よりも鋭い太刀音を吹かせ。

 棗はすぐに頭を伏せ、身を隠した。

 ザッザッザ。足音は遠い。大丈夫。気付いていない。

 

 ジャッキン!

 

「!?」

 鋭い鉄切音が彼の鼓膜を破る。彼を隠していたはずのパトカーの天井部は綺麗に滑り落ち、西日が彼の頭頂部を照らす。

 状況把握の為に天を仰ぐ棗。頭上には一体の植物体。再び彼の頭部から太陽光を遮った。

 植物体は棗の頭部を掴み、体を持ち上げる。棗は山で殉職した警官のホルスターからくすねた拳銃を植物体に発砲する。

 連射。彼はソレがカチャカチャと音を立てるだけのおもちゃと成り下がるまで発砲した。しかし。

 棗は全てを諦め、目を瞑った。

 暗黒の世界の中。彼が何かを考える、ということはなかった。何故なら彼の頭部を締め付ける植物体の握力は次第に弱まっていっていたからだ。

 恐る恐る目を開ける。

「!」

 植物体が逆に、蔦の様のもので首を絞められている。

 棗はすぐに手を振り解き、植物体から間合いを取る。百メートル程の逃走。のち振り返り、目の先で蔦を辿っていく。

 辿り着く先に何があるか、誰がいるのかなど小学一年生でもわかる。

 雄大な鞘師山を背負い雄々しく立つドラセナ。我が兄である。

 ドラセナは蔦を一斉に引き、植物体をを手繰り寄せる。宙に浮いた植物体に飛びつき、殴り、蹴り飛ばす。銃弾をもものともしない植物体が明らかにその攻撃にダメージを受けている。

「ア、アネモネ様!おそらくあいつは総帥の仰っていた開k

ベシャン!

 その言葉を最後に植物体の一体がドラセナによって身体を木端微塵に砕かれる。

「フフフ…!なんという幸運!ここであれを叩けば大手柄を総帥にお届けできるぞ!」

「しかし、総帥からはあくまで隠密にと!無理な戦闘は避けるべき」

「バカ言え!開花者だろうがたかが人間一匹!目の前に当たるとわかっている宝くじを買わぬバカがい

ドゴン!

「!?」

 一体何が起きたというのか。あの人間はまだ視界の端の端。少なく見積もっても二百メートルは先にいたはず。それなのになぜ、我々二体の体は豪烈に吹き飛ばされている。

 妖精の報告によれば開花者は二名。一名は『太陽』の能力、そしてももう一名は『自然壁愛』。こいつは間違いなく後者。

 しかしそのような能力で花陽隊の戦士を一撃でやれるほどの力が引き出せるものか。今の衝撃、おそらくベゴニアもすでに命を落とした。

 何かあるはず。まだ隠された能力が。アネモネは打ち付けられた地面から立ち上がり、ドラセナの観察を始める。爆撃。衝撃波。あるいは。

 アネモネはあらゆる攻撃に対応できるよう、彼の身長と同刀身の剣を構える。しかし。その時すでに。アネモネの体は再び吹っ飛ばされていた。

 速すぎる。考察を広げ過ぎた。こいつの攻撃は単純かつ明快だ。『ただとてつもなく俊敏』。ただそれだけだったのだ。あの瞬発力は人間でも植物でもない、獣の肉体により繰り出されるべきものだ。

 脳。筋肉。細胞。あいつを創り上げている全ての組織に獲物を狩るというイメージが刻み込まれている。例え敵が初見の相手でも、あいつは瞬時に急所を判別し確実に息の根を止めにくる。

 相手にしたのは人間ではなかった。腹を空かせた猛獣だった。

 アネモネが地面に接着するよりも速く、ドラセナは吹っ飛びゆくアネモネの身体に追いついた。

グシャ!!

 ドラセナは右手でアネモネの頭部を掴み、そのまま地面へと叩き付けそれを粉砕した。その間、わずかコンマ五秒。

 

 ドラセナは一か月間の眠りの中で何度も何度も繰り返し戦いのシュミュレーションを行ってきた。あの電撃を避けるには。あのパワーに対抗するには。彼は有り余る時間を脳内でのトレーニングに費やしてきた。

 彼はまさに戦いに飢えていた。こんなやつらは屁でもない。敵はあの電撃野郎のみ。

 

 戦いを終えたドラセナは一息つき、棗の方に横顔すら見せずに森へと帰っていく。

 棗はただ思い知らされた。人間は自然に抗えぬ。弟が兄に適わぬように。

 

 

「Fuck!」

 リリーのジープはしっかりと駐禁をとられていた。

 

第20章 -再生編-

第20章

 

1⃣ 8月16日 ①

 

 アルプローラから怒りのままに雪崩れ込んだ暴徒植物達は都内各地で人間を襲った。暴徒と戦士の区別がつかない人間達は、非人道的な虐殺行為を行う植物に対し遺憾した。

 人間界に突入した暴徒連中の数は目測でおよそ五十体。一方志半ばで散った暴徒市民の遺体を騎士隊員が聖園外へと運び出す。

ラナンキュラス…」

 ファレノプシスは人間界になだれ込んだラナンキュラスについて思慮した。

 なぜ彼は人間界へ行った。もし人間界に突入した数名の暴徒を仕留めに突入したのであれば、それは彼の領分を越えた許されざる行為。

 しかし彼がそのような無意味に秩序を破る者でないことは明らか。真意こそわからぬ。が、ファレノプシスラナンキュラスを盲目的に信用した。

 一方、大義を持って戦う花陽隊戦士達と日米合同軍及び謎の物体との戦いはさらに激しさを増していた。

 圧倒的数量で個体間の戦力差を補填する謎の物体。加えて体験したことのない蒸し暑さ。確実に戦士たちの体力を奪っていく。

 

「暑いな…聞いてはいたが」

 萎れてしまいそうなほどに強烈な夏の日差し。それをまた地上のアスファルトが反射する。自身を囲む三百六十度の異世界。ただ手探りで歩くラナンキュラス

 これまでにラナンキュラスは暴徒と見られる植物の死体を数体目撃した。

 この暑さからか。あるいは汚染された大気にか。ラナンキュラスは道端でくたばった同族の遺体を出来るだけ人目のつかぬ場所に葬った。

 人気のない跨橋の下。人間の女性が見るに堪えない姿で惨殺されている。アルプローラの香りを辿って来たのにだ。

 抵抗虚しく幾度となく切り刻まれたであろう死体。この女性が植物によって殺されたことは間違いない。ただ殺すことを目的としていない。殺人を楽しんでいる。それほど残虐なやり方。

「!」

 ラナンキュラス、何か悪寒を感じ。腰の鞘に手を掛ける。

 暗闇の中にいくつかの橙色の白熱灯が灯る。スーッと風が流れた。その刹那、空気は一気に張り詰め、突き刺さる殺気がラナンキュラスに剣を抜かせる。

 

ギィィン!

 

 痺れるような金属音が人気のない跨橋の下に響く。

 両者がその衝撃により数歩後退する。日向へと出されたラナンキュラスからは相手の顔が見えない。一方跨橋の陰に隠れた相手からはこちらが見えているようだ。

「その身のこなし…花陽隊ではありませんね」

「誰だ。名乗れ」

 すると跨橋の人影はコツコツとこちらに歩み寄りその顔を日に照らした。

「貴様も花陽隊ではないな。そしてただの市民でもない」

「御名答です」

「貴様の顔は記憶にない。斬りかかられる筋合いも見当たらない。次のお前の言葉が貴様の名以外であれば殺す」

「クラステル・アマリリス…といえば伝わりますか?」

「…なるほど。汚い名前だ」

 ラナンキュラスはその名を知っていた。《クラステル・アマリリス》。それはアルプローラに蔓延る本名不詳、最低最悪の快楽殺人犯の通名である。暴徒らに紛れてこんな厄介者がこちらに来ていたとは。

 ここで仕留めなきゃならない。剣を握る自らの拳に力を入れる。しかし、クラステルはあろうことか剣を鞘にしまった。

「あなたも人殺しに?」

「あ?」

「こっちではいくら殺しても無罪ですもんね。バーゲンセールですよ」

 クラステルの思考は暴徒のそれとは全く異なっていた。「祖国の為に」、「死んでいった家族や友の為に」。そんな大義などクラステルにはない。ただ純粋無垢に人殺しを楽しみにこちらに来ている。そして何より、彼の人間殺しは、意図しなくとも『祖国の為』になるという大義名分も手に入れて。

「残念だけどクラステル。この紋章の名の元、君を始末しなければならない」

 ラナンキュラスファレノプシスより授かった聖下蘭十字騎士隊のワッペンを示し、クラステルに剣先を向けた。

「ああ。騎士隊の方でしたか…そういうの、早く言ってくださいよ」

クラステルは納めた剣を再び抜き、ラナンキュラスに一言問うた。

「あなた、強い人間のことを何か御存じですか?」

 強い人間。ファレノプシスが言っていたような気がする。聖園の妖精らが何人かの人間に力を与えたと。しかし答える義理はない。ラナンキュラスは間合いを一ミリも崩さず全ての問いを無視した。

「フフフ。想像さえしてくれればいいんです」

 その言葉を口火にクラステルがラナンキュラスに襲い掛かった。

 ラナンキュラスはあまりにも圧倒的だった。一太刀でそれを察したクラステルは即時ラナンキュラスからの退散を決めた。

 戦士ではないクラステルにとって敗走は何の恥も意味も表さない。彼の中には美学もクソも全くない。

「待て!」

 待てと言って待った奴が果たして歴史上にいるだろうか。ラナンキュラスはすぐに跨橋の闇に溶けたクラステルを見失った。

 剣を鞘にしまい、バラバラになった女性をまた人目のつかぬ所へ葬った。

 跨橋の闇の下は冷たい空気が流れていた。

 

2⃣  8月16日 ②

 

「下道の方が早かったか…」

 リンドウは藤乃とともにアスファルトが熱で歪む高速道路の上で渋滞に捕まっていた。

 かなり余裕をもって出てきたので多少時間には余裕がある。しかし際限なく降り注ぐ真夏の光線はフロントガラスを越えて、彼らの黒いユニフォームを熱し続けた。

 リンドウはあれから一か月半、何事もなかったかのようにLindberghの業務に努めた。

 もうきっと彼らに会うこともないのだろう。時々ふと考えるが、彼はそれを自分に課す過多労働で強制的に拭った。

 もし人類が滅亡することになればそれは自分の責任だ。自覚はしている。しているが、妖精の力を失った今、彼にできることと言えばハーフタレントなのか何なのかよくわからない、ただ名前にトリッキーな横文字が入ってるというだけのこの女がヤマもオチも意味もない話を延々垂れ流すこのラジオをとっとと切ることくらいである。

 リンドウがラジオのつまみを回す。車内には沈黙、それと荷台に積んである大量の花の香りが残った。

 

「社長。亀井さんにプロポーズされました」

 車内には沈黙と花の香り、そして気まずさが加わった。

 

 

 冷房の効いた店内はまさに極楽。客足の減る夏、経営者でないやす子にとってここはまさにうってつけの避暑地だ。

 三つ葉はすでに推薦での大学進学を決めている。学校が夏休みに入ると彼女はここぞとばかりに出勤日を増やした。

 オシャレな店内には現在やす子と三つ葉ちゃんの二人のみ。優しいジャズがゆったりと流れる。三つ葉はそう言えば聞いていなかったと、あることをやす子に尋ねた。

「社長と藤乃さんってどういう関係なんですか?」

「良い質問ね!」

 歩くワイドショーの異名を持つやす子はウキウキで答える。

 

 

 十数年前。都内某高校に入学したリンドウは、クールを気取っていたのか、それともただの人見知りだったのか、今とあまり変わりなく当時から口数の少ない男だった。

 そのためクラスメイト達からすれば最初は話しかけにくい存在だったかもしれない。しかし時間さえ立ってしまえば、そのようなありもしない壁はすぐになくなり、当時のクラスメイト達とは今も気さくな仲である。

 とはいっても、他学級の生徒たちからは愛想の悪い奴と最後まで思われていただろうし、部活に入っていなかった彼は他学級の友人が顕著に少なかった。

「リンドウって藤乃先輩と同じ中学?」

 従ってリンドウにとって上述この問い掛けは二十代も後半となった現在でも強く記憶に残っている。見知らぬ男が自分の名前を知っている。お前は誰だとまずは問いたかったが、どことなく気を遣った彼はまずその質問に答えた。

「藤乃先輩って?」

「フェンシング部の芝浦藤乃先輩」

「ああ、芝浦さんか」

「藤乃先輩って彼氏いる?」

「いや、知らん」

 芝浦藤乃、リンドウと同じ中学に通っていた二学年上の先輩である。二者はおそらく互いの存在を周知し合ってはいたが、特に関りがある訳ではなかった。

 リンドウが彼女について知っていることと言えば、中学時代、英語のスピーチで何か賞を獲って朝礼で表彰されていたことぐらいだろうか。あとはフェンシングをやっているという情報をこの謎の男に教えてもらった限りである。

「なんだよ使えねーなー」

 見知らぬ男によく知らぬ女性の質問を矢継ぎ早にされ、答えを怠れば使えぬと罵られる。リンドウは二度とこの男と口を利かぬと心に誓った。

 次の日。普段気にしていなかっただけなのか、あるいはこの数十時間で功績を上げまくったのか。リンドウは校内の至る所に『芝浦藤乃』の名が記されている事に気が付いた。

『フェンシング部優勝』、『英会話スピーチ優秀賞』その他諸々・・・。それらを見るだけで彼女がこの学校において、かなりの有名人であったことを遅れながらに悟った。

 約三年ぶり、彼女の映った写真にて改めてその容姿を見てみると、短かったと記憶していた彼女の髪は艶やかに肩丈まで伸び、化粧をしているのか大人びたその顔は、単刀直入に美しいと感じた。

 昨日のバカは先輩にホの字か。リンドウ自身も恋愛に興味がないわけではなかったが、興味がなさそうにしている方がカッコいいと思っていたので、そのように自身を演出していた。

 その日の昼休み。友人らと食堂へ赴いたリンドウは、奥の席に藤乃の姿を見つけた。今朝から妙に彼女を意識してしまっていたリンドウは、逐一彼女の動向を気にした。

 昼休憩終了を告げる予鈴が鳴り、生徒たちが一斉に席を立つ。

 リンドウは何となく、奥の藤乃のグループとタイミングを合わせるように立ち上がり、下膳列に並んだ。

 今、確かに目が合った。しかし、彼女はリンドウに全く気付かなかった。リンドウは藤乃が自分のことを全く覚えていなかったこと、むしろ中学が同じというだけで何故か浮かれ、他の藤乃にゾッコンなやつらに変な優越感を感じていた自分を自分で恥じ、下膳列で一人耳を赤らめた。

 こうしてリンドウの学生生活は大きな歓喜も絶望もなく平穏に流れていった。

 

 高校生活最初の夏。結局どの部活にも入らなかったリンドウは、母子家庭の母を支える為日々バイトに精力を燃やした。

 バイトから帰り、明日の期末試験の勉強を始めようと通学鞄を空ける。そこにあるはずの試験対策用紙が見当たらない。どうしたものか。記憶を掘り返してみる。

 そういえば吉田に貸して返してもらったのをロッカーに入れたきりだ。あれがなければテストは悲惨なことに。恐怖した彼は学校に戻り、そのプリントの回収に向かった。

 学校につくと、もう夜も中々深いというのに体育室の明かりがついていた。

 体育室と言えばバスケやバレーと違い、体育館ほどのスペースを使用しないスポーツ部が使う、ミニチュア版体育館といった部屋である。

 リンドウは例のプリントを無事回収し、ついでに用を足しに同フロア奥にある体育室前の便所に向かった。

 彼が体育室前に差し掛かった瞬間、体育室の扉が勢いよく開いた。リンドウが思わず扉の方に眼をやると、中から出てきたのは髪を汗で額にくっつけた芝浦藤乃だった。

 リンドウは思わず目を背けトイレに駆け込んだ。

「アヤメでしょ」

 リンドウはトイレの前で止まり、藤乃の突然の呼びかけにも普段通りクールを装った。

「何してるの?」

「プリントを取りに来て」

「そうなんだ。じゃあ一緒に帰ろ。帰り道一緒じゃん」

「は」

「じゃあ着替えてくるからちょっと五分待ってて。五分!」

 少なく見積もっても三十分、何かあればもっと長い時間。これから自分達は二人きりになる。起こり得ないあんなことやこんなことをリンドウは妄想した。クールリンドウも結局は思春期男子であった。

「おまたせ」

 シトラスの清汗剤。何度も捲られたミニスカート。革の鞄。錆びた自転車。夜虫の鳴き声。

 騒がしい都会の遊歩道をリンドウが自転車を押し、その横を藤乃が並んで歩いた。

「フェンシング強いんですね」

「そうでもないよ」

 すると突然、藤乃は落ちていた木の枝でリンドウの胸元をつついた。リンドウがそれを嗜めると、何故か嬉しそうに彼女は聞いてもいないフェンシングの基本を教えてきた。

「今聞いてなかったでしょ!」

「聞いてましたよ。左足を出すんですよね」

「違う!右!てかアヤメ中学の時私に敬語使ってなかったじゃん」

「覚えてないですよ」

「なんか気持ち悪いからタメ口でいいよ」

「わかりました」

「…」

「…わかった」

 

 

「社長、亀井さんにプロポーズされました」

「…そっか。受けるの?」

「まだちょっと決めきれなくて」

「そっか」

「なーんかこう、胸に突き刺さって来ないんですよねー」

「あっそ。てかなんで敬語なんだよ」

「だって社長ですもんね」

「なんか気持ち悪いからタメ口に戻して」

「わかりました」

「…」

「わk」

 

ドッゴン!

 

「!」

 リンドウと藤乃を乗せた軽トラが大きな音をたてて揺れる。地震か。リンドウが辺りを見回す。様子がおかしい。

 皆がこちらを見ている。もしくは自らの車を捨てて逃げていく。いったい何が起きている。

 リンドウが軽トラから降りる。荷台の幌。破り割こうとしている植物体の姿。

 花の香りに釣られたのか。虫じゃあるまいし。とりあえずリンドウは荷台の大切な装花を守らんと植物体に駆け寄り。それを荷台から引きずり下した。

 熱せられたアスファルトに転げ落ちる植物体。今度は眼の色を変えてリンドウに襲い掛かかる。リンドウはもちろんそれに応戦する。紛いなりにもちょっと前まで戦っていたのだ。全く歯が立たぬわけでは…。

 

ドゴン!

 

「!」

 植物体のパワーは想像の数倍も重かった。リンドウの咄嗟の防御も及ばず、彼はその場に跪く。

 こいつはあの時の植物戦士とは違う。あの時の恐怖を醸し出していない。それなのに。個体ではなく。種族としても。植物と人間ではこんなにも優劣があるのか。

 植物体は続けて彼の身体を持ち上げる。そして何の躊躇もなく、リンドウの身体を高速道路の高架外へと放り捨てた。

 その場に居合わせた皆が恐怖した。高速道路上が絶望に満ち溢れる。植物体は悦に浸り逃げ遅れた者たちを次々に殺戮していった。

「ヤバいよ…どうしよ…」

 出たら殺される。そう直感した藤乃は助手席で息を殺した。

 

 

 それからリンドウは意味もなく学校に残って勉強してみたりした。そしてフェンシング部が終わるタイミングを見計らって勉強を終わらせてみたりした。

「藤乃さんって彼氏いんの」

「いないよ。多分」

「多分って何だよ」

「なんかすごい言い寄ってくる人がいる」

「付き合ってんの?何かみんな聞いてくる」

「うーん、言葉を悪くすればキープってゆーのかな」

「へー」

「別に悪い人じゃないんだけどさー、なーんかこう、胸に突き刺さってこないんだよねー」

 藤乃は、木の枝をリンドウの胸に突き刺しながら言った。リンドウも木の枝を拾い藤乃に木の枝を刺し返した。

「だから右と左が逆だって!」

「こっちの方がやりやすいんだよ」

「違うんだってー。てか今おっぱいつついたでしょ」

「つついてねーから。そういうの興味ないから」

「へーそーなんだー」

 夜とはいえ、何人かの生徒は一緒に下校する彼らの姿を目撃した。忽ちそれは噂になり、リンドウの元にも届いた。

 四月にこちらを訪ねてきた謎の男や他数名がやはり訪ねてきて、リンドウと藤乃のあれこれを聞いてきた。ただ本当に付き合っているわけではなかったので、そいつらにはありのままを伝えた。

 皆からは『先輩に遊ばれてる哀れな一年』と見られているのだろう。しかし別にリンドウは彼女に対し恋愛感を抱いているわけでもなく、藤乃に言い寄っている誰かから藤乃を奪おうなんてことも考えてはいない。ただ彼は、藤乃の特別であろうとした。

 夏の終わり、リンドウは彼女の引退試合を見に行った。スポーツ高ではないウチの高校で、この時期まで部活を引退していないのはかなり珍しい。

 いくらフェンシングがマイナースポーツとはいえ、全国大会となればやはり会場は賑わっていた。

 客席から試合を控える藤乃を見ていると、その取り巻きに入学直後のあの謎の男を見つけた。あいつはフェンシング部だったのか。どうでもいい知識がまた一つリンドウの頭に増えた。

 どうやら試合はすでに始っているようだ。フェンシングなんて見たこともなかったリンドウは、それがいつ始まったのかすら把握できていなかった。

 向かって右が藤乃。多分それは合っている。今どっちが何対何で勝っているのだろうか。そもそもポイント制なのだろうか。あれは刺さって痛くないのだろうか。などいろいろ考えているうちに試合は終わった。どちらが勝ったのだろうか。双方反応が薄めだが、何かそういう暗黙のルールがあるのか。

 とにかくリンドウは勝敗の判断に困った。あの謎の男が喜んでいるのを見るに、きっと藤乃が勝ったのだろう。

 藤乃は結局次の試合に負けたらしい。彼女は泣いていた。今日リンドウは彼女の初めての姿をいくつも見た。自分が知っている藤乃は、ほんの一部なんだと知り、何故か悔しくなった。

 リンドウはふと立ち上がり、この中に藤乃に言い寄っている男がいるんだと観客席を見回した。藤乃によればそいつは二個上の先輩、つまりリンドウの四個上の先輩。つまりは大学生らしい。

 そいつは今、彼女の姿を見て何を思っているのだろうか。リンドウが見た彼女の初めての姿はそいつにとっては何度目のそれだったのだろうか。すすり泣く藤乃の頭の中には今、誰かいるのだろうか。少なくともリンドウの頭の中には今、藤乃しかいなかった。

 それから半年。藤乃は卒業した。藤乃の引退後、口実をなくしたリンドウが彼女と一緒に帰ることは一度もなかった。謎の男によれば藤乃は例の男と付き合ったらしい。卒業式、リンドウは藤乃だけを見ていた。しかし二人の目が合うこと一度もなかった。

 

 時の流れは川の流れ、とはよく言ったもので、それは怖いほどに人の記憶や感情を洗い流していった。

 リンドウはそれからすぐに彼女を作った。藤乃の存在は忘れないが、藤乃への感情はもう忘れてしまった。今思えば自分は完全なる彼女の『キープ』だった。いやキープですらなかったのかもしれない。

 リンドウはその彼女とも別れ、また違う彼女を作ってみたりした。そうして時はさらさらと流れていった。

 リンドウは大学には進学せず、バイト先の花屋の店長の勧めで、イタリアへの留学を決めた。そこでも彼女を作ったりしたかもしれないがもう忘れた。

 彼のイタリアでの生活はすべてが刺激的だった。日本とは違う情熱的な表現に、店長に勧められたからという適当な理由で始めた花の道にどんどんどんどんはまっていった。

「日本人のアルバイトを採用したよ」

 彼が渡伊してきてから二年くらいが経過したある日の昼下がり、ボスがリンドウに言った。

「日本語なんて久しく喋ってないから忘れてしまったよ」

 リンドウはこっちで学んだ冗談を交えながらボスと談笑した。ボスがリンドウに送られてきたレジュメを手渡す。するとそこには決して忘れもしない『Fujino Shibaura』の文字が記されていた。リンドウは何のジョークも言えずに、その拙いイタリア語のレジュメを眺めた。

 大学卒業後。彼女はフェンシング留学のために訪れたこの国に魅せられていた。そして彼女は希しくも、このフローリストでアルバイトを始めることとなったのだ。

 奇跡以外の何物でもない。リンドウは再会するやいなや空白の期間を補填しようとした。異国の地で二人きりの日本人。恋人ではない。しかし彼を邪魔する者は誰一人いない。

 

 四年後。リンドウが日本での独立を決めると、一足先に日本に帰国していた藤乃は剣を置き、リンドウの店に入閣を決めた。

 二人は少しの借金もしたが、たまたま空き物件を持っている超絶美人グラマラスお姉さんが地元にいたこともあって見事、弱冠二十五歳、二十八歳の若さで、都内の一等地に店舗を構えた。

「…という訳でそのお姉さんっていうのがーこのやす子なのである!」

「やす子さん!すごい!お金持ち!」

「えっへん!」

「まさに運命ですね!これは!」

「しかし、見ての通り、二人は今もあんな感じ」

「社長の意気地なし!」

 

バッギーン!

 

 前方の車から窓ガラスが割れる音と子供の泣き声が響く。

 恐る恐る顔を上げる。植物体が文字にできない激しい呼吸音を唸らせ、鮮血に染まった両手を車内に突っ込み、泣きわめく子供を引っ張り出そうとしている。

 藤乃は覚悟を決め車を飛び出した。軽トラ上部に付いていたラジオアンテナをへし折り、それを握った拳でボンネットをボンと殴り、植物体の注意をこちらに引き寄せた。

 植物体は藤乃の思惑通りに幼児を一旦離す。身体を完全にこちらに向けた植物体は藤乃に狙いを定め突進する。

 藤乃はラジオアンテナを構え、その間合いを完全に見切る。

ブシュウウウ!

 正確無比な剣捌きによりアンテナが植物体の眼球部に突き刺さる。

 植物体が聞くに堪えない叫び声をあげ、その場に倒れこむ。彼女はすぐに前方の車に駆け寄り、子供の救出に向かう。

「もう大丈夫だよ」

 彼女の手。男の子の手。触れたその瞬間。

 

ドゴン!

 

「!?」

 彼女は背後から豪烈な殴打を食らった。

 植物体は顔にアンテナを刺したまま、幼児の鳴き声を頼りにこちらに向かってきたのだ。

 あばらを数本いかれた。呼吸すらままならない。、再び男の子に手を掛けようとする植物体の前に声すら出すことも適わない。

 植物体の手が闇雲に男の子の位置を探る。左手が触れた小さな頭を掴むと、植物体はそれを生卵を扱うように優しく車内から取り出す。

 植物体はひたすら優しく男の子の頭を持ち上げ高架端まで歩いた。そして藤乃を見る。

 植物体がニヤリと不敵な笑みを浮かべる。頭の中には考え得る最悪の恐怖が思い描かれる。しかしそれを阻止しようと動悸を上げれば上げるほど、ひしゃげた肋骨は肺に刺さっていく。

「!!!」

 彼女の声にならない叫び。無礙にされ。植物体はついに男の子を高架の外に放り出した。男の子の叫び声が遠くで消えていく。

 再びこちらに向かってくる。脳内の余地をなくすほどの絶望。

 だからこそ、その直後におきたことに関して彼女は理解がかなり遅れたのかもしれない。

 植物体が両手を合わせ、それを振りかぶる。

 

ズシャーン!!

 

「ヴァアア!?」

 植物体の胸から青く光る何かが突き出てきた。植物体が下品な叫び声をあげる。

 光る何かが植物体から引き抜かれる。いなや植物体が後方を振り向く。

 青く輝くサーベルのようなものを持った、同様に青い光を放つ男。

 藤乃の眼にも遅れてその姿が映る。男性の背中には先ほどの男の子がしがみついている。理解は簡単じゃない。

 植物体が怒りのままに青い男に襲い掛かる。しかし男は植物体の攻撃を簡単にいなす。いなすだけじゃない。男性は植物体の攻撃を躱しながら的確にサーベルを急所に突き刺していく。

 ほとんど瀕死状態、切羽詰まった植物体は青い男を捨て、藤乃の殺害に目を向ける。

「!!」

 植物体が藤乃の身体を掴み、それを自身の前に抱える。彼女を盾に青い戦士に突撃する寸法。この時、藤乃は意外にも冷静に青い男の手足の動きを見ていた。

 踏み込み、引き出し、間合い。どれも玄人のそれじゃない。むしろ素人丸出し。だけれどもあの動き。

 青い男のサーベルは針の穴を指すように藤乃を避け、植物体の脳天を突き刺した。植物体は膝から沈黙し、放たれた藤乃を青い男が抱きかかえる。

 

「(左足じゃなくて右足!)」

 

…と、男性に教えてあげたかったけれど折れたあばらが藤乃の発声を妨げる。

 

 青い男は藤乃と男の子を下しどこかへ消えていった。間もなく救急車がやってきて二人は搬送された。

 救命士に事の次第を伝えようにもひとつの声も出せない彼女に代わって、一緒に搬送された男の子が事の次第を無邪気に話す。

「青いヒーローが助けてくれたんだよ!」

 ショックで頭がおかしくなってしまったのか。男の子の話を全く聞こうとしない救急隊員を藤乃は笑った。笑うたびに肋骨が刺さり、死にかけた。

 

「(何か…突き刺さってくるわー!)」

 彼女はまた自分の心の声に笑い、死にかける。

 

 

第19章 -再生編-

第19章

 

① 8月15日

 

 世界で一番熱く光る夏。蝉の鳴き声。日本の夏は、流れ出る汗さえも趣を持つ。

 

「この『ヒーロー』っていうのはろくなもんじゃねーな!」

 阿久津農園の歯抜け、室田は如何わしい写真週刊誌に乗ったイラスト記事を読んで言った。

「こいつらさえいなければってんだろ?」

 阿久津農園の毛抜け、佐々木もそれに同調した。

「でもさ、あれだよね。うん。あれだ」

 阿久津農園の間抜け、相川もおそらく同調した。

「お前らそんなもんいい加減読むのやめろ!」

 阿久津農園の社長阿久津は、還暦をとうに過ぎても毎日のようにコンビニでエロ本を買ってくる室田を叱咤した。

「だいたいお前らはよくこんな嘘に本気になれるな」

「社長は信じてないのかい」

「オレはこの目で見たものし以外は信じねえ」

「うふふ」

 この時ひまわり、「実はもうその『ヒーロー』にみんな会ってるんだよなあ」。心の中で笑いながら、そのいつもと変わらぬ光景を見て麦茶を飲んだ。

 

「みんな元気かなあ」

 

 北海道から上京してきて初めて体験する本州の夏。その信じられぬ暑さに項垂れながら、彼女はこの一か月半あることについて考えていた。

「これ以上あたしはここにいる理由があるのだろうか」

『聖木を護る』、この使命はどうやら終わったようだ。終わったからガベリアはもういない。テレビで植物達は人間に病気にさせられたと言っていた。だから今植物と人間が戦っている。あたしはたしか聖木を護るために東京に来たはず。だからもう東京でやることはないよね。すっごく暑いし。ボタちゃんにも迷惑だし。

 阿久津もひまわりのことをかなり気に掛けていた。阿久津はひまわりがヒーローだったということを知る由もないが、近頃ひまわりが北海道に帰ろうと目論んでいることは何となくだが感じ取っていた。

 友人の紹介とはいえこんな若い女の子が、こんなゴミクズしか働いていない農場で貴重な二十代の時間を潰してしまうのはこちらとしても申し訳ない。それにひまわりに何故東京に来たのか聞いても妖精だ何だと言ってまともな返事をよこさない。

 阿久津も以前までは従業員らの下品ぶりに対して特に何かを咎めるようなことはしてこなかった。しかしひまわりが来てからは、彼女のことを気に掛けるとそうせざるを得なかったし、ひまわりのような純粋無垢な子を守らねばという親心が彼をそうさせていた。

 阿久津は実の息子にも貰ったことのない父の日のプレゼントをひまわりに貰った。

 黒いキャップ。若者が被ってるようなやつだ。阿久津はそんなことを言ってそれを貶していた。が、阿久津はそのキャップを毎朝恥ずかしそうに、誰にもばれないように被って出勤している。今まさに休憩所で流れるラジオの声の主がそれを選んだとも知らずに。

 

 東京の西端、東京の名を冠しても田舎であることには間違いない。ここいらの住民らはあの宣戦布告をどう見たのか。見たところで、それをSFか何かか、といんばかりに多くの住人にとっては右から左だった。

 実際彼らもやれ都会モンが、やれ空気が汚いだ、普段から言ってることは植物らと大して変わらない。

 さて広い農場の真ん中。フカフカの土の上にはそんな雑音も一切届かない。聞こえてくるのは雑木林が風に揺れる音と、セミの鳴き声、それと鋏音だけ。

 阿久津が商品にならない規格外のトマトをひまわりに渡す。ひまわりは嬉しそうにトマトを頬張る。

「やっぱり北海道の方がいいか」

「うーん。どうでしょう」

「頼むから気を遣うなよ。あいつらもな、お前が来る前はちゃんと仕事してたんだ。お前がよく働いてくれるからあいつらさぼってんだ。まあお前も大概トロイがな」

 阿久津は時折毒を差しながら、ひまわりとの小休止に腰を落とした。

「他のヤツらが今頃年金で余生を楽しんでるっつーのにオレはこんな歳でもまだ働いてる。金に困ってるわけでもねえのに」

 阿久津はクーラーボックスに入れておいたメーカーのよくわからないサイダーを飲みながら、一緒に冷やしておいたスイカを取り出し、ひまわりと別けた。

「オレにはここしかねえし、野菜しかいねえ。女房は逝っちまったし倅はもう畑のハの字も知らねえ都会モンだ。そのさらに倅の顔なんてもう忘れちまった。オレが死ねばここも終いだ。オレはここで生まれてここで死ぬ。そしてここの肥料になってオレは畑と永遠にフォーエヴァーだ。もしここが植物界に支配されたとしてもオレは化けてでも出てきてここを守る」

 スイカの種をプププと飛ばし、ひまわりは阿久津の話に耳を傾ける。

「実家の牧場は大丈夫なのか」

「うん。なんか弟とかががんばってるみたいです」

「そうか。ひまわりの父ちゃんは幸せ者だな」

「ですねえ」

「さてやるか」

「はあい」

 二人はまた木陰から炎天下の畑に戻る。すぐに響くひまわりへの阿久津の叱咤が、蝉の声に滲んでは消えていく。

 

 

「まずい…。すぐに四門の士官を中央に集めろ!至急議会城の門前に兵を固めるんだ!」

 人間界出兵から約一か月半。依然増え続ける疫病の猛威、音沙汰のない花陽隊の成果。鎮静化されていたアルプローラ市民の暴動は再び再燃した。

 いくらかの市民はあの時と同じように再び武器を握り、集い、聖会へと突撃を企てた。

「オレたちも人間界に行かせろ」、「人間を全員殺してやる」。抑えきれない人間への衝動を爆発させ、もはや知能のないケダモノと化す市民ら。

 ついに突撃してきた彼らを騎士隊は必死に抑え込んだ。

 ファレノプシスラナンキュラスが剣を取る。が、それは中々に難儀だった。

 押し寄せる暴徒。理性もクソもない。理性のあったダリアやダンデライオンの方がまだやりやすかった。暴徒市民らの勢いに騎士隊は圧倒される。

「花陽隊はいったい何をしているんだ!」

 ファレノプシスが本国に残留しているはずの花陽隊第二団隊が応援に来ないことに咆哮した。

 暴徒達はついに騎士隊を押し込み聖会議城の敷地内に侵入する。屋内にある聖園への扉はもう眼前に。

 ラナンキュラスは仕方がなく彼らを切った。殺さずに全ての暴徒を鎮めること。留意こそしたが、それはもはや不可能だった。

 ラナンキュラスが強硬策に出たことにより、暴徒達の勢いもさらに増す。

 ファレノプシスも暴徒連中の先頭に立ちはだかり彼らを切る。しかし止め処なく流れ込む暴徒連中に彼らは押され、遂に聖園への扉に手が掛かる。

 市民を聖園に踏み入れさせたとなれば、長い間守り抜かれた蘭十字騎士隊の名誉は無に還る。その時はもうこの国は花陽隊、いやカーネーションの独壇場だ。

カランコエの二団をこちらの残したのはその為か…!。カーネーションはこれを見越して同胞不戦派であるカランコエをこちらに残したということなのか…!。

 

「調子に乗るなよ…」

 

 ファレノプシスが自ら禁じていた自身の開花能力を発揮させる。瞬時に屍となる暴徒達。しかし尚も止め処なく暴徒連中は迫りくる。

 全ての事象には相性がある。ファレノプシスは「誰が最強か」という議題において必ず名が挙げられるほどの猛者であるが、今回に限っては、死を恐れず突撃してくる暴徒達に対して彼の能力は『相性が悪かった』。

 

「もうだめだ…!」

 

 聖園への扉が開く。聖園の草花が暴徒らによって踏みにじられ、妖精達はそれを木の上から見ている。

「空洞にだけはいかせるな!」

 騎士隊員ら続々と聖園に突入する。彼らの軍靴がさらに芝生を捲り、緑の大地が次第に黒くなっていく。

 

「あったぞ!空洞だ!」

 騎士隊の制止を振り切った数名の植物が人間界への空洞を発見する。

「止めろ!殺して構わん!」

 騎士隊が暴徒を斬る。しかし、暴徒連中の勢いは止まらなかった。

 重なる唸りと共に、暴徒連中はついに人間界への空洞を潜っていってしまった。

 我も我もと空洞に雪崩れ込む暴徒達。その中にファレノプシスは信じられぬ顔を見る。

「待て!ラナン!」

 何を血迷ったのか。それとも事故か。ラナンキュラスは他の暴徒らとともに人間界への空洞に潜り込んでいったのだ。

 しかしファレノプシスはまず聖園内に侵入した暴徒達の殲滅を優先した。

 

 開けた聖園では彼らの殲滅にさほどの時間を要さなかった。

 ファレノプシスが剣を鞘にしまわず聖園を見回す。聖なる土地には市民の死体が転がっている。凄惨な光景。先人達が守り抜いてきた大切なものが音をたてて崩れていく。

 

 

 昼下がり、早朝から始まった本日の農作業を締め、プレハブの事務室に皆が帰っていく。

 ひまわりが四人分のお茶を汲む。水垢のこびりついたグラス。端の椅子にチョコンと腰を落とす。

 佐々木らが壁に張り付けられたブラウン管から垂れ流されるワイドショーを肴に下世話な話を繰り広げる。ひまわりもその番組にアイドル桜田牡丹を見つけるやテレビに注視した。

 ふと辺りを見回す。見てるのは自分だけか。みんないつのまにか気持ち良さそうに寝ていた。

 ひまわりは四人の湯飲みを下膳し、社長が用意してくれた一回り小さなもう一つのプレハブ、ひまわり専用更衣室に入った。

 実家には紫苑も雛ちゃんも薊もいる。自分はここにきて、働かせてもらって、社長やボタちゃんに何か恩を返せただろうか。

 いつでもトロいひまわりの着替えだが、この日は一段と遅かった。

 

「逃げろ!!」

 

 ひまわりにもその叫び声は届いた。ひまわりは慌ててツナギのチャックをもう一度上げ外に出る。すると事務室から飛び出る佐々木の姿が一瞬だけ見えた。

 か。ひまわりが佐々木が消えた方へと歩く。近所の人たちが慌てて車に飛び乗っている。みんな何かから逃げているように見受けられる。

「ひまわりちゃんも早く乗れ!殺されるぞ!」

 室田の言葉に何も言えず、ひまわりは言われるがままに室田の泥だらけの車に飛び乗る。

 ひまわりが事の次第を問う。三人は口を揃えて言う。「こっちも奴らが来た」と。

 植物が襲ってくる。そんな話は都心の話だとばかり思っていた。「何故都内に留めておかないんだ」。三人は情けない戯言を叫んだ。

「社長は!」

 ひまわりが乗り込んだ車に阿久津がいないことに気付く。

「社長は畑に行った!俺たちは止めたんだ!」

 ひまわりは直感した。社長はあの子たちを護りに行ったんだ。

 

バタン!

 

「ひまわりちゃん!?」

 ひまわりは車の後部扉を開けた。次の瞬間。

「!?」

 ひまわりはなんと超高速で走る車から外に飛び出した。

 映画では見たことがあった。でも実際やったらどうなってしまうのか。そんなことを考えられる脳味噌があったなら、ひまわりはとっくに北海道に帰っている。

 ズジャー

 ひまわりの白い肌はお世辞にも無事とは言えなかった。しかしひまわりは立ち上がり、農場へと走った。

 

 畑。阿久津が野菜に防護ネットを敷いている。

「社長逃げて!」

 阿久津はひまわりを無視し野菜を優先させる。ひまわりが慌てて社長の元に駆け寄る。無言で作業する阿久津の瞳。ひまわりは本気を感じ、作業に手を貸す。

「お前は逃げろ」

「断ります!」

 ひまわりが初めて阿久津に歯向かう。

 

 ズシャ。ズシャ。足の形を想像できない。聞いたことのない足音。

 二人が一斉に足音の方を向く。大根を何の感情もなく踏みつけ、こちらに向かってくる植物体。

 阿久津は怒った。我が子を弄られた親のように怒り狂った。阿久津は近くのシャベルを手に取り植物体に向かっていった。

 阿久津が振り上げたシャベル。生身の人間ならば骨の一本や二本では済まされない重大な攻撃と成り得る。はずだった。しかし。植物体はいとも簡単にそれを右腕で受け止め、シャベルを圧し折った。

「社長!」

 

ボゴ!

 

 強烈な殴打。老人の身体はいとも簡単に弾き飛ばされた。植物体がケケケと笑う。そして、そのニヤけた目は次にひまわりを捉えた。

 ひまわりが目の前に転がる阿久津の元に駆け寄る。彼にまだ意識がある事を確認したひまわりは阿久津を腕に抱いた。

「…逃げ…るんだ」

「断ります!」

 ひまわりがまた歯向かう。反抗期に似たそれ。

 植物体が作物をまた無残に踏みつぶし二人の方へとゆっくり歩を進めてくる。殺すことが目的じゃない。彼は私達をじっくり弄ぶことを楽しんでいる。

 その歩みの全てを見つめたひまわり。今まで彼女が見せたことのない怒りに染まる瞳。ひまわりが阿久津に口を開く。

「社長。あたし、実はヒーローなんです」

「あ?」

「だから見ててください」

 ひまわりは阿久津の頭部を柔らかい土の上にそっと降ろし、天に右手を揚げた。

 そのままゆっくりと立ち上がり、ひまわりの右手は激しい光を帯び始める。

「!!」

 そして、彼女の体は次第に黄色く、淡く灯りだす。

 淡い光が彼女の全身を包み込んだ時にはもう、植物体はひすでにひまわりの眼前まで来ていた。

 ひまわりは心に決めた。この畑、社長、そして佐々木さん室田さん相川さんはあたしが護る。ぼたちゃん、リーダー、リリさん、ドラちゃん、リンドウさん。雛ちゃん、薊、紫苑、父さん、母さん、ガベリアにみんなみんな!。大好きなみんなは私が守る!大好きなみんなの為にこの力を使う!

 息を荒げる植物体がひまわりに拳を振りかぶる。

 

「ごめんね、植物さん」

 

ショッギャァァァァァン!

 

「!?」

 ひまわりの右手から強烈なビームが放たれた。

 激しい光が収まる。あったはずの植物体は黒い影だけを残し跡形もなく焼き消されている。

 ひまわりはふうと一息をつき、自身を包んでいた淡い光を収める。彼女は阿久津の元に寄り添う。

「社長、大丈夫ですか?」

「な、なんだあれは…」

「あれは太陽ビームです!」

「いやいや」

「うふふ。ああ今日は残業ですねえ」

 ひまわりは植物体に少し、自身のビームにて大半を荒らされた畑を見て言った。

「…。…そうだな」

 二人は立ち上がり、まだまだ終わらぬ長い昼間と蝉の声の中に消えていく。

 

 

 

 数日後、性懲りもなく如何わしい雑誌に更ける三人。特集は今日もヒーローやら謎の物体やら。

「社長はこういうのは信じないからな。だよな社長!」

「バカ。ヒーローはいるよ」

「あ?この前は信じねーつったじゃないか!」

「オレはこの目で見たもの以外は信じねえって言ったのさ」

「あ?」

 ひまわりはニコリと笑いながら、また隅でズズズと麦茶を啜った。

 

 世界で一番熱く光る夏。世界で一番大きな太陽。世界で一番愛してる。

 

 

 

 

 

 

 

第18章

第18章 

 

① 8月8日

 

 蛇黒が脱獄してから三週間ほど経過した。案の定、刑期を終えた元受刑者、少年法により罪を逃れた元少年らが次々と残忍な姿で発見された。それに怯えたのか、もう一度刑務所に入れてくれと懇願する元受刑者さえも現れた。

 見つかった死体が蛇黒によるものである確証はない。しかしながら彼の脱走が国内の凶悪犯罪発生数を微弱ながらも減少させたのは真実であり、まさしく、彼という存在は新たな法となろうとしていた。

 

 

「もうわかったってばあ」

 浅海遥。警視庁の門前で電話口の故郷の母親からこっぴどく叱られる。夏焼はそれが終わるのを涼しい車内からタバコをふかし待っている。

「車はべんしょーするから!」

『当たり前でしょ!勝手に持っていっちゃって!』

「いますんごいネタつかんでてそのあれで新車にして返すからさー!絶対!」

『まだ怪しい雑誌なんかやってるの!?』 

「怪しくないから!これがあたしの天職なの!じゃあ人待たせてるから!」

 浅海は一方的に切った電話口にベーと舌を出し夏焼が待つ車へと小走りで向かった。

「遅せえぞ。住居侵入で逮捕するぞ」

「ひどい!鬼!」 

 夏焼二瓶浅海、そして三四十代のサイバー班小林を乗せた車のホイールが灼熱のアスファルトを転がる。

 

 

「いらっしゃい!あら牡丹ちゃん!今日は一人なのね!」

「うん。いつものくださーい」

「すぐ作るね!」 

 牡丹は昼時のピークを終え少し客足の落ち着いたラーメン屋の暖簾をくぐり、未だ遠足の筋肉痛が癒えぬ体にムチを撃ちカウンター席に腰を下ろした。

 女性店主が一人で回している、スミレに教えてもらったこのラーメン屋『陽気なアコちゃん』は、どういう訳かめちゃくちゃうまい。

 何の香りかはわからないが鼻腔から脳髄を優しく刺激する香ばしい匂い。何味かわからないが宝石のように輝く濃厚なスープに黄金の麺。そしてその上に乗る雑なトッピング。それがまたいい。すごくいい。気取ってなくてめちゃくちゃいい。五百円。完璧だ。最近の阿保みたいにお高くとまったラーメンとは違う。次元が違う。裏次元の味だ。

「最近何か物騒だねー」

 店主は最近話題の女子学生連続失踪事件についてあーでもないこーでもないと生ゴミにもならない議論を垂れ流すワイドショーを見て言った。牡丹はいいからラーメンを出せとそれに適当に相槌した。

「牡丹ちゃん」

「は、はい!」

 店主は手を拭った布巾を調理台に置き、普段は見せない神妙な面持ちで牡丹の名を優しく呼んだ。牡丹は自身のあまりにも適当な相槌に店主が怒ってしまったと焦る。

「…やっぱいいや。何でもない!ちょっと昔を思い出しちゃった!牡丹ちゃん見てるとどうもねー昔のあたしとねー被っちゃうのよ!」

「へ?」

「いいからいいからはい!アコちゃんラーメン!煮卵サービス!」

「え、いいんですか」

「牡丹ちゃんにはがんばってもらわなきゃね!」

「アコさん!いただきまーす」

 牡丹は割り箸を勢いよく割りスープの中にするりと差し込んだ。牡丹が最高の一杯を楽しんでいると、古びた引き戸が開きにくそうに開いた。

「アコさん。ラーメン大盛りで」

「げ」

「人の顔見てそんな顔すんな」

「せっかくのラーメンが台無しなんだけど」

「チミたちは相変わらずだねえ」 

 入店してきたのは成田だった。成田は牡丹といつものやりとりをし、牡丹から一番遠い席に座った。

「アコさんごちそうさま。お会計置いとくね」

「はーい!またねー!あ!そういえば」

「?」 

「じゃーん!今日から会員カード創りました!特典は…まだ決めてないけど!はい、記念すべき会員ナンバー一番!」

「そうなんだ。じゃあまたねアコさん」

 牡丹がまた開けづらそうな引き戸をガタガタと開け退店した。

「はいアコちゃんラーメン大盛り!」

「いただきます!」

 

 『陽気なアコちゃん』をあとにした牡丹。諸々書類を受け取るために学校へと向かう。

 成田が入って来たから何となく店を出てきたが、さっきのアコさんは何だか意味深だった。アコさんのような一般庶民が私のような美少女を見ていったい何を懐かしく思ったのだろうか。

 あの人。若い頃はブイブイ言わせてたに違いない。店の前に停まってるイカツイバイクを見れば想像は付く。牡丹は手に持ったままだった会員カードにデカデカと印刷された店主の顔を見ながら昔の彼女を想像した。その時。

 

「!?」

 

 牡丹が身体に急な浮遊感を覚える。次の瞬間、彼女の視界はなくなりバタンとドアが閉まる音だけが耳にささった。

 牡丹はすぐに理解した。これは誘拐だ。そりゃそうだ。こんな美少女が人気のない路地を歩いていれば。私が男だったら私だってそうする。

 自身の美貌に一通り自惚れた牡丹は、脱出する方法をやっと考え始める。

 女子高生連続失踪事件。きっとこいつが犯人だろう。弄ぶだけ弄んだあと山にでも捨てるのか。冗談じゃない。

 敵は一人?車に引きずり込めれて目隠しと轡されたけどその後は車が動くだけ。二人ならこんな美少女すぐにでも犯したいはず。一人なら牡丹ちゃんキックでイチコロ。

 牡丹は楽観的に自問自答を繰り返した。それが本心か否かは本人が一番よく理解している。

 

「ごちそうさまでしたー」

「はーいまたね!はいボーズ君は会員ナンバー二番!」

 気まぐれな引き戸はスムーズに開閉した。暖簾を潜る成田。少し歩く。正方形の厚紙を二つ折りにした会員カード。デカデカと印刷されたアコがこっちを見ている。捨てる気はないが捨てたらそれこそ呪いに掛けられそうな何処か魔力のある紙だ。

 

「お」

 

 成田は道端の側溝に何かを見つける。アコちゃんラーメンの会員カードだ。捨てられている。いったいどこの命知らずだ。おもむろにそのカードを拾おうと腰をかがめた成田はふと、店主の言葉を思い出す。

 自分は会員番号ナンバーツー。この世にこのカードはまだ二枚しか発行されていない。つまりこれは桜田のカード。桜田がポイ捨てしたのか。いや。桜田は口が裂けても性格が良いとは言えないが絶対にそんなことをするようなやつではない。

 落としたのか。いやありえない。『外』では完璧な桜田牡丹の鎧を身に纏うあいつがそんなミスをするはずがない。何か起きたのか。桜田の身に。成田は至急有田とスミレに連絡した。

「牡丹電話でない。学校にも来てないって」

「わかった」

 スミレの報告。桜田は本当に誘拐されたのか。有田はすぐに単車にスミレを乗せて牡丹の捜索を開始する。成田もすぐに駅の交番に向かおうとしたその時、唸りをあげる単車の排気音が彼の横で止まった。

 有田のマフラーではない。成田が振り向く。

 スカイブルーのライダースジャケット。小柄な体に合わないアメリカンタイプのバイク。フルフェイスで顔は見えないがこのバイクには大きく見覚えがある。

「乗って!それじゃ間に合わないでしょ」

 バイクに跨った女性はヘルメットを成田に投げつけ彼をバイクの後ろに乗せた。

「心当たりは!」

「ありません!でも例の失踪のやつだと思います!植木が不自然に折れ曲がってたんで車に連れ込まれたと思います!」

「やるだけやって捨てるなら山林ね。他に何かないの!」

 成田は精一杯牡丹について考えた。テレビで見てた時。転校してきた時。学校にて。『陽気なアコちゃん』にて。遠足にて。遠足。

「そうだ!GPS!アイツGPS持ってるはず!」

「何!あなたストーカー!?」

「違いますよ!遠足の時配られたのをあいつは捨てたんです!それをあいつが逃げないように砂浜で遊んでる間に靴ベラの下に仕込んだんです!あいつは今日それを履いていた!」

「やっぱりストーカーじゃない!」

「とにかく梅屋がGPSの片割れを持ってるはず!」

「オッケー!ちょっとトバすわよ…!」

 マフラーは激しい唸りと煙をあげ芽実高校へと向かう。

 

 こんな時にロッタがいれば。いくら力を込めても妖精の力は漲らない。あんな屈強で邪悪な物体と戦って来たのにこんなタンカスに弄ばれるなんて。屈辱だ。恥ずかしいとか悲しいとかじゃない。これは何も混ざらない純粋な屈辱。

 音もしない。山の中かどこか。現実的に考えて助けは来ない。気が付けば男は横に来ている。牡丹は一か八か鼻息の方へと頭突き一発かます

 …。彼女のスイングはいとも簡単に止められた。妖精の力がなければ女というのはこんなにも弱い。知っていた。本当はそんなこと知っていた。

 何かが顔に当たっている。熱い何かが。見えないだけ幸運か。

 終わった。犯されて死ぬ。来世はもっと謙虚に生きよう。最悪の一年だt

 

 バリーン!

 

 ガラスが割られる音。犯人と思われる男の声が車内に響く。

「!!」

「桜d

 ドスン。

 一瞬誰かの声がした気がした。しかしそれは鈍い殴打音により消えた。

 一体何が起きているのか。牡丹は表情筋をこれでもかと動かし何とか目隠しをずらそうと試みる。

「とりゃ!」 

 女性の声だ。さっきもこの人だったのか。牡丹は犯人がその女性に気を獲られているであろうことを推測し頭をぶんぶんと振り回す。

「痛ったーーいんだけど!」

 ついに目隠しずれた。れは確かハイエースと言うのだったか。大きい車だ。その中央でバットを持つ男。犯人だ。思ったより普通の容姿だ。こそしてそのバットを受け止める小柄な女性。頭にはフルフェイス。スカイブルーのライダースジャケット。いったい誰だ。 

 犯人はバットを捨て拳闘に切り替えた。フルフェイスの女性を力でもってぶちのめそうとしている。

「なめんじゃないわよ!」

 しかし女性はそれを身軽な身のこなしで躱し、時に反撃する。すごい。リリーさん程のキレはない。しかしこれは立派な戦闘術だ。

「おりゃ!」

 女性のハイキックが男の顔面に入った。しかし男はそれをものともしなかった。男は女性の腕を掴み反対の手でフルフェイスのシールドをあげ女性の顔を確認した。

「もう年かもおー」

 腕を捻り上げられ、足を払われた女性が弱音をあげる。牡丹の中で生まれかけた希望が音をたてて崩れていく。

 牡丹は男の脛に齧りついた。勇気とは決して目に見ることはできないし、手に取ることも叶わない。しかし誰もがその存在を肯定する。目に見えないのにだ。存在を証明できないのにだ。

 ロッタがいないからなんだ。妖精の力がないからなんだ。ぶっ殺す!それでも殺されたら呪い殺す!絶対に負けない!このフルフェイスの女性が勇気を思い出させてくれた!ありがとう!ありがとうアコさん!

 男が牡丹の頭を踏みつける。それでも牡丹は喰らい付いた。

 彼女の中には確実には勇気がある。それを証明できる者は一人もいない。しかし否定できる者も誰一人いない。その勇気の鼓動。それこそがこれから起こる奇跡を呼び覚ませたに違いない。

 

 バッシューーーーン!

 

「!?」

 男の顔下半分が突如破裂した。男は声にならない声をあげている。男はパニックに陥っている。この場にこの状況を理解できている者は一人もいない。

 サク、サクとこちらに近づいてくる足音。数秒後。ロックが掛けられているはずのバックドア

 ギギギギギギギィィン!

 激しい音を上げ、力づくでこじ開けられる。

「…無事か?」

 一目惚れとはこういう事を言うのかもしれない。何というスタイリッシュな登場。引き締まった体。タッパは百八十を超えているか。見惚れるほど綺麗な顔立ち。黒を基調とした飾らないファッション。そして子宮を震わす低い声。ヒーローとはまさにこういう人のことを言うのか。牡丹は思わず瞼を下げた。

「ムァアア!むあむあああむま!」

「やめとけ。喋れば喋るほどつらいぞ」

 

バキューン!

 

 黒い男性は何の躊躇もなく男の足を撃ち抜いた。黒い男性は牡丹を縛る拘束具を外し、彼の羽織物を彼女のはだけた身体に被せた。

「お姉さーん。生きてるかー」

「な、なんとかねー」

「そりゃよかった。そっちの坊主も生きてるな」

 そっちの坊主。牡丹が『そっち』に目をやる。するとそこには気を失った成田が倒れていた。

「お姉さん。とりあえずこの男はこっちで預かるから。お嬢ちゃんと坊主を連れて帰り。下に車置いてあるから。書いてあるところに返しといて」

 男性は女性のフルフェイスを優しく下し、車のキーとメモを手渡した。

「じゃあお言葉に甘えて…。ほら!牡丹ちゃん!行くよ!」

 女性がふらつきながら立ち上がり気を失う成田を抱え、もがき苦しむ男を跨いで車外へ出た。

 牡丹はそれに続かず悶絶する男を見下ろし続けていた。

「やめときな。後戻りできなくなるよ。君が人間でなくなる」

 黒い男性が牡丹の肩に手を置き優しく静止した。

 牡丹は今自分が怒りに支配されていたことを思い知った。数秒間の記憶がない。頭の中では足元にビクビクと瀕死の魚のように震えるこの男をさらに踏みつけ、蹴り飛ばし、ぶち殺そうと思い描いていた。肩に乗った黒い男性の手は血が通っていないかのように冷たい。 

 黒い男性が牡丹を車から下す。牡丹は男性を見上げ、問う。

「そいつ、この後どうするんですか」

「殺すよ」

「え」

「君は奇跡的に助かった。けどこの男に全てを奪われた女の子とその家族がたくさんいる。オレは少しでも残酷な方法でこいつを殺す。あの世に行った後もオレを思い出し、永遠に恐怖の渦から抜け出せないような残虐なやり方で。…さあ行きな。夜の山は人殺しが出るぞ」

「最後に名前だけでも!」

「全国の駅に名前が張り出されてるよ。顔写真付きでね」

 バン!黒い男性は牡丹に微笑み、後部扉を勢いよく閉めた。

「さあ帰ろ。もう疲れたよー」

 フルフェイスの女性が牡丹の手を引く。背後では男の断末魔が響いている。

 今背後で人が殺されている。あの人は人殺しだ。でもあの人からはあの誘拐犯のような気持ち悪い、変態的な雰囲気はまるでなかった。むしろ好意的な、正義と覚悟に満ち溢れた、梅屋先生やリリーさんに近いソレ。

 でもやっぱきっとあの人はとてつもない数の人を殺している。フルフェイスの女性は彼顔と名を知っている様だった。全国の駅に…。あの人はそんなに有名人なのか。

 いったいどんな人なのだろう。もっと知りたい。殺人を許容する事なんてできないけど、でもでもとにかくかっこよかった。セクシーな顔、声、体。きっとこういう時に使うんだろう。あの人なら「抱かれてもいい」。

 それに比べこのイガグリ。本当に何しに来たんだ。

「起きろ!自分で歩け!」

 牡丹は成田の頭をボコんと殴り、ケツを蹴り上げた。

「起きてんだろ!歩け自分で!バカ!」

 成田は目を覚ました。目を覚ました瞬間道に捨てられた。

「な何すんだよ!」

 強姦寸前。そして体感した殺人の瞬間。普通の女子高生ならショックで精神が壊れてもおかしくない。それなのにこの子は強い。本当に。

 

「さあ帰ってラーメンでも食べよっかあ」

 フルフェイスの女性は牡丹を見てまた若い頃を思い出し、微笑んだ。