第20章 -再生編-

第20章

 

1⃣ 8月16日 ①

 

 アルプローラから怒りのままに雪崩れ込んだ暴徒植物達は都内各地で人間を襲った。暴徒と戦士の区別がつかない人間達は、非人道的な虐殺行為を行う植物に対し遺憾した。

 人間界に突入した暴徒連中の数は目測でおよそ五十体。一方志半ばで散った暴徒市民の遺体を騎士隊員が聖園外へと運び出す。

ラナンキュラス…」

 ファレノプシスは人間界になだれ込んだラナンキュラスについて思慮した。

 なぜ彼は人間界へ行った。もし人間界に突入した数名の暴徒を仕留めに突入したのであれば、それは彼の領分を越えた許されざる行為。

 しかし彼がそのような無意味に秩序を破る者でないことは明らか。真意こそわからぬ。が、ファレノプシスラナンキュラスを盲目的に信用した。

 一方、大義を持って戦う花陽隊戦士達と日米合同軍及び謎の物体との戦いはさらに激しさを増していた。

 圧倒的数量で個体間の戦力差を補填する謎の物体。加えて体験したことのない蒸し暑さ。確実に戦士たちの体力を奪っていく。

 

「暑いな…聞いてはいたが」

 萎れてしまいそうなほどに強烈な夏の日差し。それをまた地上のアスファルトが反射する。自身を囲む三百六十度の異世界。ただ手探りで歩くラナンキュラス

 これまでにラナンキュラスは暴徒と見られる植物の死体を数体目撃した。

 この暑さからか。あるいは汚染された大気にか。ラナンキュラスは道端でくたばった同族の遺体を出来るだけ人目のつかぬ場所に葬った。

 人気のない跨橋の下。人間の女性が見るに堪えない姿で惨殺されている。アルプローラの香りを辿って来たのにだ。

 抵抗虚しく幾度となく切り刻まれたであろう死体。この女性が植物によって殺されたことは間違いない。ただ殺すことを目的としていない。殺人を楽しんでいる。それほど残虐なやり方。

「!」

 ラナンキュラス、何か悪寒を感じ。腰の鞘に手を掛ける。

 暗闇の中にいくつかの橙色の白熱灯が灯る。スーッと風が流れた。その刹那、空気は一気に張り詰め、突き刺さる殺気がラナンキュラスに剣を抜かせる。

 

ギィィン!

 

 痺れるような金属音が人気のない跨橋の下に響く。

 両者がその衝撃により数歩後退する。日向へと出されたラナンキュラスからは相手の顔が見えない。一方跨橋の陰に隠れた相手からはこちらが見えているようだ。

「その身のこなし…花陽隊ではありませんね」

「誰だ。名乗れ」

 すると跨橋の人影はコツコツとこちらに歩み寄りその顔を日に照らした。

「貴様も花陽隊ではないな。そしてただの市民でもない」

「御名答です」

「貴様の顔は記憶にない。斬りかかられる筋合いも見当たらない。次のお前の言葉が貴様の名以外であれば殺す」

「クラステル・アマリリス…といえば伝わりますか?」

「…なるほど。汚い名前だ」

 ラナンキュラスはその名を知っていた。《クラステル・アマリリス》。それはアルプローラに蔓延る本名不詳、最低最悪の快楽殺人犯の通名である。暴徒らに紛れてこんな厄介者がこちらに来ていたとは。

 ここで仕留めなきゃならない。剣を握る自らの拳に力を入れる。しかし、クラステルはあろうことか剣を鞘にしまった。

「あなたも人殺しに?」

「あ?」

「こっちではいくら殺しても無罪ですもんね。バーゲンセールですよ」

 クラステルの思考は暴徒のそれとは全く異なっていた。「祖国の為に」、「死んでいった家族や友の為に」。そんな大義などクラステルにはない。ただ純粋無垢に人殺しを楽しみにこちらに来ている。そして何より、彼の人間殺しは、意図しなくとも『祖国の為』になるという大義名分も手に入れて。

「残念だけどクラステル。この紋章の名の元、君を始末しなければならない」

 ラナンキュラスファレノプシスより授かった聖下蘭十字騎士隊のワッペンを示し、クラステルに剣先を向けた。

「ああ。騎士隊の方でしたか…そういうの、早く言ってくださいよ」

クラステルは納めた剣を再び抜き、ラナンキュラスに一言問うた。

「あなた、強い人間のことを何か御存じですか?」

 強い人間。ファレノプシスが言っていたような気がする。聖園の妖精らが何人かの人間に力を与えたと。しかし答える義理はない。ラナンキュラスは間合いを一ミリも崩さず全ての問いを無視した。

「フフフ。想像さえしてくれればいいんです」

 その言葉を口火にクラステルがラナンキュラスに襲い掛かった。

 ラナンキュラスはあまりにも圧倒的だった。一太刀でそれを察したクラステルは即時ラナンキュラスからの退散を決めた。

 戦士ではないクラステルにとって敗走は何の恥も意味も表さない。彼の中には美学もクソも全くない。

「待て!」

 待てと言って待った奴が果たして歴史上にいるだろうか。ラナンキュラスはすぐに跨橋の闇に溶けたクラステルを見失った。

 剣を鞘にしまい、バラバラになった女性をまた人目のつかぬ所へ葬った。

 跨橋の闇の下は冷たい空気が流れていた。

 

2⃣  8月16日 ②

 

「下道の方が早かったか…」

 リンドウは藤乃とともにアスファルトが熱で歪む高速道路の上で渋滞に捕まっていた。

 かなり余裕をもって出てきたので多少時間には余裕がある。しかし際限なく降り注ぐ真夏の光線はフロントガラスを越えて、彼らの黒いユニフォームを熱し続けた。

 リンドウはあれから一か月半、何事もなかったかのようにLindberghの業務に努めた。

 もうきっと彼らに会うこともないのだろう。時々ふと考えるが、彼はそれを自分に課す過多労働で強制的に拭った。

 もし人類が滅亡することになればそれは自分の責任だ。自覚はしている。しているが、妖精の力を失った今、彼にできることと言えばハーフタレントなのか何なのかよくわからない、ただ名前にトリッキーな横文字が入ってるというだけのこの女がヤマもオチも意味もない話を延々垂れ流すこのラジオをとっとと切ることくらいである。

 リンドウがラジオのつまみを回す。車内には沈黙、それと荷台に積んである大量の花の香りが残った。

 

「社長。亀井さんにプロポーズされました」

 車内には沈黙と花の香り、そして気まずさが加わった。

 

 

 冷房の効いた店内はまさに極楽。客足の減る夏、経営者でないやす子にとってここはまさにうってつけの避暑地だ。

 三つ葉はすでに推薦での大学進学を決めている。学校が夏休みに入ると彼女はここぞとばかりに出勤日を増やした。

 オシャレな店内には現在やす子と三つ葉ちゃんの二人のみ。優しいジャズがゆったりと流れる。三つ葉はそう言えば聞いていなかったと、あることをやす子に尋ねた。

「社長と藤乃さんってどういう関係なんですか?」

「良い質問ね!」

 歩くワイドショーの異名を持つやす子はウキウキで答える。

 

 

 十数年前。都内某高校に入学したリンドウは、クールを気取っていたのか、それともただの人見知りだったのか、今とあまり変わりなく当時から口数の少ない男だった。

 そのためクラスメイト達からすれば最初は話しかけにくい存在だったかもしれない。しかし時間さえ立ってしまえば、そのようなありもしない壁はすぐになくなり、当時のクラスメイト達とは今も気さくな仲である。

 とはいっても、他学級の生徒たちからは愛想の悪い奴と最後まで思われていただろうし、部活に入っていなかった彼は他学級の友人が顕著に少なかった。

「リンドウって藤乃先輩と同じ中学?」

 従ってリンドウにとって上述この問い掛けは二十代も後半となった現在でも強く記憶に残っている。見知らぬ男が自分の名前を知っている。お前は誰だとまずは問いたかったが、どことなく気を遣った彼はまずその質問に答えた。

「藤乃先輩って?」

「フェンシング部の芝浦藤乃先輩」

「ああ、芝浦さんか」

「藤乃先輩って彼氏いる?」

「いや、知らん」

 芝浦藤乃、リンドウと同じ中学に通っていた二学年上の先輩である。二者はおそらく互いの存在を周知し合ってはいたが、特に関りがある訳ではなかった。

 リンドウが彼女について知っていることと言えば、中学時代、英語のスピーチで何か賞を獲って朝礼で表彰されていたことぐらいだろうか。あとはフェンシングをやっているという情報をこの謎の男に教えてもらった限りである。

「なんだよ使えねーなー」

 見知らぬ男によく知らぬ女性の質問を矢継ぎ早にされ、答えを怠れば使えぬと罵られる。リンドウは二度とこの男と口を利かぬと心に誓った。

 次の日。普段気にしていなかっただけなのか、あるいはこの数十時間で功績を上げまくったのか。リンドウは校内の至る所に『芝浦藤乃』の名が記されている事に気が付いた。

『フェンシング部優勝』、『英会話スピーチ優秀賞』その他諸々・・・。それらを見るだけで彼女がこの学校において、かなりの有名人であったことを遅れながらに悟った。

 約三年ぶり、彼女の映った写真にて改めてその容姿を見てみると、短かったと記憶していた彼女の髪は艶やかに肩丈まで伸び、化粧をしているのか大人びたその顔は、単刀直入に美しいと感じた。

 昨日のバカは先輩にホの字か。リンドウ自身も恋愛に興味がないわけではなかったが、興味がなさそうにしている方がカッコいいと思っていたので、そのように自身を演出していた。

 その日の昼休み。友人らと食堂へ赴いたリンドウは、奥の席に藤乃の姿を見つけた。今朝から妙に彼女を意識してしまっていたリンドウは、逐一彼女の動向を気にした。

 昼休憩終了を告げる予鈴が鳴り、生徒たちが一斉に席を立つ。

 リンドウは何となく、奥の藤乃のグループとタイミングを合わせるように立ち上がり、下膳列に並んだ。

 今、確かに目が合った。しかし、彼女はリンドウに全く気付かなかった。リンドウは藤乃が自分のことを全く覚えていなかったこと、むしろ中学が同じというだけで何故か浮かれ、他の藤乃にゾッコンなやつらに変な優越感を感じていた自分を自分で恥じ、下膳列で一人耳を赤らめた。

 こうしてリンドウの学生生活は大きな歓喜も絶望もなく平穏に流れていった。

 

 高校生活最初の夏。結局どの部活にも入らなかったリンドウは、母子家庭の母を支える為日々バイトに精力を燃やした。

 バイトから帰り、明日の期末試験の勉強を始めようと通学鞄を空ける。そこにあるはずの試験対策用紙が見当たらない。どうしたものか。記憶を掘り返してみる。

 そういえば吉田に貸して返してもらったのをロッカーに入れたきりだ。あれがなければテストは悲惨なことに。恐怖した彼は学校に戻り、そのプリントの回収に向かった。

 学校につくと、もう夜も中々深いというのに体育室の明かりがついていた。

 体育室と言えばバスケやバレーと違い、体育館ほどのスペースを使用しないスポーツ部が使う、ミニチュア版体育館といった部屋である。

 リンドウは例のプリントを無事回収し、ついでに用を足しに同フロア奥にある体育室前の便所に向かった。

 彼が体育室前に差し掛かった瞬間、体育室の扉が勢いよく開いた。リンドウが思わず扉の方に眼をやると、中から出てきたのは髪を汗で額にくっつけた芝浦藤乃だった。

 リンドウは思わず目を背けトイレに駆け込んだ。

「アヤメでしょ」

 リンドウはトイレの前で止まり、藤乃の突然の呼びかけにも普段通りクールを装った。

「何してるの?」

「プリントを取りに来て」

「そうなんだ。じゃあ一緒に帰ろ。帰り道一緒じゃん」

「は」

「じゃあ着替えてくるからちょっと五分待ってて。五分!」

 少なく見積もっても三十分、何かあればもっと長い時間。これから自分達は二人きりになる。起こり得ないあんなことやこんなことをリンドウは妄想した。クールリンドウも結局は思春期男子であった。

「おまたせ」

 シトラスの清汗剤。何度も捲られたミニスカート。革の鞄。錆びた自転車。夜虫の鳴き声。

 騒がしい都会の遊歩道をリンドウが自転車を押し、その横を藤乃が並んで歩いた。

「フェンシング強いんですね」

「そうでもないよ」

 すると突然、藤乃は落ちていた木の枝でリンドウの胸元をつついた。リンドウがそれを嗜めると、何故か嬉しそうに彼女は聞いてもいないフェンシングの基本を教えてきた。

「今聞いてなかったでしょ!」

「聞いてましたよ。左足を出すんですよね」

「違う!右!てかアヤメ中学の時私に敬語使ってなかったじゃん」

「覚えてないですよ」

「なんか気持ち悪いからタメ口でいいよ」

「わかりました」

「…」

「…わかった」

 

 

「社長、亀井さんにプロポーズされました」

「…そっか。受けるの?」

「まだちょっと決めきれなくて」

「そっか」

「なーんかこう、胸に突き刺さって来ないんですよねー」

「あっそ。てかなんで敬語なんだよ」

「だって社長ですもんね」

「なんか気持ち悪いからタメ口に戻して」

「わかりました」

「…」

「わk」

 

ドッゴン!

 

「!」

 リンドウと藤乃を乗せた軽トラが大きな音をたてて揺れる。地震か。リンドウが辺りを見回す。様子がおかしい。

 皆がこちらを見ている。もしくは自らの車を捨てて逃げていく。いったい何が起きている。

 リンドウが軽トラから降りる。荷台の幌。破り割こうとしている植物体の姿。

 花の香りに釣られたのか。虫じゃあるまいし。とりあえずリンドウは荷台の大切な装花を守らんと植物体に駆け寄り。それを荷台から引きずり下した。

 熱せられたアスファルトに転げ落ちる植物体。今度は眼の色を変えてリンドウに襲い掛かかる。リンドウはもちろんそれに応戦する。紛いなりにもちょっと前まで戦っていたのだ。全く歯が立たぬわけでは…。

 

ドゴン!

 

「!」

 植物体のパワーは想像の数倍も重かった。リンドウの咄嗟の防御も及ばず、彼はその場に跪く。

 こいつはあの時の植物戦士とは違う。あの時の恐怖を醸し出していない。それなのに。個体ではなく。種族としても。植物と人間ではこんなにも優劣があるのか。

 植物体は続けて彼の身体を持ち上げる。そして何の躊躇もなく、リンドウの身体を高速道路の高架外へと放り捨てた。

 その場に居合わせた皆が恐怖した。高速道路上が絶望に満ち溢れる。植物体は悦に浸り逃げ遅れた者たちを次々に殺戮していった。

「ヤバいよ…どうしよ…」

 出たら殺される。そう直感した藤乃は助手席で息を殺した。

 

 

 それからリンドウは意味もなく学校に残って勉強してみたりした。そしてフェンシング部が終わるタイミングを見計らって勉強を終わらせてみたりした。

「藤乃さんって彼氏いんの」

「いないよ。多分」

「多分って何だよ」

「なんかすごい言い寄ってくる人がいる」

「付き合ってんの?何かみんな聞いてくる」

「うーん、言葉を悪くすればキープってゆーのかな」

「へー」

「別に悪い人じゃないんだけどさー、なーんかこう、胸に突き刺さってこないんだよねー」

 藤乃は、木の枝をリンドウの胸に突き刺しながら言った。リンドウも木の枝を拾い藤乃に木の枝を刺し返した。

「だから右と左が逆だって!」

「こっちの方がやりやすいんだよ」

「違うんだってー。てか今おっぱいつついたでしょ」

「つついてねーから。そういうの興味ないから」

「へーそーなんだー」

 夜とはいえ、何人かの生徒は一緒に下校する彼らの姿を目撃した。忽ちそれは噂になり、リンドウの元にも届いた。

 四月にこちらを訪ねてきた謎の男や他数名がやはり訪ねてきて、リンドウと藤乃のあれこれを聞いてきた。ただ本当に付き合っているわけではなかったので、そいつらにはありのままを伝えた。

 皆からは『先輩に遊ばれてる哀れな一年』と見られているのだろう。しかし別にリンドウは彼女に対し恋愛感を抱いているわけでもなく、藤乃に言い寄っている誰かから藤乃を奪おうなんてことも考えてはいない。ただ彼は、藤乃の特別であろうとした。

 夏の終わり、リンドウは彼女の引退試合を見に行った。スポーツ高ではないウチの高校で、この時期まで部活を引退していないのはかなり珍しい。

 いくらフェンシングがマイナースポーツとはいえ、全国大会となればやはり会場は賑わっていた。

 客席から試合を控える藤乃を見ていると、その取り巻きに入学直後のあの謎の男を見つけた。あいつはフェンシング部だったのか。どうでもいい知識がまた一つリンドウの頭に増えた。

 どうやら試合はすでに始っているようだ。フェンシングなんて見たこともなかったリンドウは、それがいつ始まったのかすら把握できていなかった。

 向かって右が藤乃。多分それは合っている。今どっちが何対何で勝っているのだろうか。そもそもポイント制なのだろうか。あれは刺さって痛くないのだろうか。などいろいろ考えているうちに試合は終わった。どちらが勝ったのだろうか。双方反応が薄めだが、何かそういう暗黙のルールがあるのか。

 とにかくリンドウは勝敗の判断に困った。あの謎の男が喜んでいるのを見るに、きっと藤乃が勝ったのだろう。

 藤乃は結局次の試合に負けたらしい。彼女は泣いていた。今日リンドウは彼女の初めての姿をいくつも見た。自分が知っている藤乃は、ほんの一部なんだと知り、何故か悔しくなった。

 リンドウはふと立ち上がり、この中に藤乃に言い寄っている男がいるんだと観客席を見回した。藤乃によればそいつは二個上の先輩、つまりリンドウの四個上の先輩。つまりは大学生らしい。

 そいつは今、彼女の姿を見て何を思っているのだろうか。リンドウが見た彼女の初めての姿はそいつにとっては何度目のそれだったのだろうか。すすり泣く藤乃の頭の中には今、誰かいるのだろうか。少なくともリンドウの頭の中には今、藤乃しかいなかった。

 それから半年。藤乃は卒業した。藤乃の引退後、口実をなくしたリンドウが彼女と一緒に帰ることは一度もなかった。謎の男によれば藤乃は例の男と付き合ったらしい。卒業式、リンドウは藤乃だけを見ていた。しかし二人の目が合うこと一度もなかった。

 

 時の流れは川の流れ、とはよく言ったもので、それは怖いほどに人の記憶や感情を洗い流していった。

 リンドウはそれからすぐに彼女を作った。藤乃の存在は忘れないが、藤乃への感情はもう忘れてしまった。今思えば自分は完全なる彼女の『キープ』だった。いやキープですらなかったのかもしれない。

 リンドウはその彼女とも別れ、また違う彼女を作ってみたりした。そうして時はさらさらと流れていった。

 リンドウは大学には進学せず、バイト先の花屋の店長の勧めで、イタリアへの留学を決めた。そこでも彼女を作ったりしたかもしれないがもう忘れた。

 彼のイタリアでの生活はすべてが刺激的だった。日本とは違う情熱的な表現に、店長に勧められたからという適当な理由で始めた花の道にどんどんどんどんはまっていった。

「日本人のアルバイトを採用したよ」

 彼が渡伊してきてから二年くらいが経過したある日の昼下がり、ボスがリンドウに言った。

「日本語なんて久しく喋ってないから忘れてしまったよ」

 リンドウはこっちで学んだ冗談を交えながらボスと談笑した。ボスがリンドウに送られてきたレジュメを手渡す。するとそこには決して忘れもしない『Fujino Shibaura』の文字が記されていた。リンドウは何のジョークも言えずに、その拙いイタリア語のレジュメを眺めた。

 大学卒業後。彼女はフェンシング留学のために訪れたこの国に魅せられていた。そして彼女は希しくも、このフローリストでアルバイトを始めることとなったのだ。

 奇跡以外の何物でもない。リンドウは再会するやいなや空白の期間を補填しようとした。異国の地で二人きりの日本人。恋人ではない。しかし彼を邪魔する者は誰一人いない。

 

 四年後。リンドウが日本での独立を決めると、一足先に日本に帰国していた藤乃は剣を置き、リンドウの店に入閣を決めた。

 二人は少しの借金もしたが、たまたま空き物件を持っている超絶美人グラマラスお姉さんが地元にいたこともあって見事、弱冠二十五歳、二十八歳の若さで、都内の一等地に店舗を構えた。

「…という訳でそのお姉さんっていうのがーこのやす子なのである!」

「やす子さん!すごい!お金持ち!」

「えっへん!」

「まさに運命ですね!これは!」

「しかし、見ての通り、二人は今もあんな感じ」

「社長の意気地なし!」

 

バッギーン!

 

 前方の車から窓ガラスが割れる音と子供の泣き声が響く。

 恐る恐る顔を上げる。植物体が文字にできない激しい呼吸音を唸らせ、鮮血に染まった両手を車内に突っ込み、泣きわめく子供を引っ張り出そうとしている。

 藤乃は覚悟を決め車を飛び出した。軽トラ上部に付いていたラジオアンテナをへし折り、それを握った拳でボンネットをボンと殴り、植物体の注意をこちらに引き寄せた。

 植物体は藤乃の思惑通りに幼児を一旦離す。身体を完全にこちらに向けた植物体は藤乃に狙いを定め突進する。

 藤乃はラジオアンテナを構え、その間合いを完全に見切る。

ブシュウウウ!

 正確無比な剣捌きによりアンテナが植物体の眼球部に突き刺さる。

 植物体が聞くに堪えない叫び声をあげ、その場に倒れこむ。彼女はすぐに前方の車に駆け寄り、子供の救出に向かう。

「もう大丈夫だよ」

 彼女の手。男の子の手。触れたその瞬間。

 

ドゴン!

 

「!?」

 彼女は背後から豪烈な殴打を食らった。

 植物体は顔にアンテナを刺したまま、幼児の鳴き声を頼りにこちらに向かってきたのだ。

 あばらを数本いかれた。呼吸すらままならない。、再び男の子に手を掛けようとする植物体の前に声すら出すことも適わない。

 植物体の手が闇雲に男の子の位置を探る。左手が触れた小さな頭を掴むと、植物体はそれを生卵を扱うように優しく車内から取り出す。

 植物体はひたすら優しく男の子の頭を持ち上げ高架端まで歩いた。そして藤乃を見る。

 植物体がニヤリと不敵な笑みを浮かべる。頭の中には考え得る最悪の恐怖が思い描かれる。しかしそれを阻止しようと動悸を上げれば上げるほど、ひしゃげた肋骨は肺に刺さっていく。

「!!!」

 彼女の声にならない叫び。無礙にされ。植物体はついに男の子を高架の外に放り出した。男の子の叫び声が遠くで消えていく。

 再びこちらに向かってくる。脳内の余地をなくすほどの絶望。

 だからこそ、その直後におきたことに関して彼女は理解がかなり遅れたのかもしれない。

 植物体が両手を合わせ、それを振りかぶる。

 

ズシャーン!!

 

「ヴァアア!?」

 植物体の胸から青く光る何かが突き出てきた。植物体が下品な叫び声をあげる。

 光る何かが植物体から引き抜かれる。いなや植物体が後方を振り向く。

 青く輝くサーベルのようなものを持った、同様に青い光を放つ男。

 藤乃の眼にも遅れてその姿が映る。男性の背中には先ほどの男の子がしがみついている。理解は簡単じゃない。

 植物体が怒りのままに青い男に襲い掛かる。しかし男は植物体の攻撃を簡単にいなす。いなすだけじゃない。男性は植物体の攻撃を躱しながら的確にサーベルを急所に突き刺していく。

 ほとんど瀕死状態、切羽詰まった植物体は青い男を捨て、藤乃の殺害に目を向ける。

「!!」

 植物体が藤乃の身体を掴み、それを自身の前に抱える。彼女を盾に青い戦士に突撃する寸法。この時、藤乃は意外にも冷静に青い男の手足の動きを見ていた。

 踏み込み、引き出し、間合い。どれも玄人のそれじゃない。むしろ素人丸出し。だけれどもあの動き。

 青い男のサーベルは針の穴を指すように藤乃を避け、植物体の脳天を突き刺した。植物体は膝から沈黙し、放たれた藤乃を青い男が抱きかかえる。

 

「(左足じゃなくて右足!)」

 

…と、男性に教えてあげたかったけれど折れたあばらが藤乃の発声を妨げる。

 

 青い男は藤乃と男の子を下しどこかへ消えていった。間もなく救急車がやってきて二人は搬送された。

 救命士に事の次第を伝えようにもひとつの声も出せない彼女に代わって、一緒に搬送された男の子が事の次第を無邪気に話す。

「青いヒーローが助けてくれたんだよ!」

 ショックで頭がおかしくなってしまったのか。男の子の話を全く聞こうとしない救急隊員を藤乃は笑った。笑うたびに肋骨が刺さり、死にかけた。

 

「(何か…突き刺さってくるわー!)」

 彼女はまた自分の心の声に笑い、死にかける。