第18章

第18章 

 

① 8月8日

 

 蛇黒が脱獄してから三週間ほど経過した。案の定、刑期を終えた元受刑者、少年法により罪を逃れた元少年らが次々と残忍な姿で発見された。それに怯えたのか、もう一度刑務所に入れてくれと懇願する元受刑者さえも現れた。

 見つかった死体が蛇黒によるものである確証はない。しかしながら彼の脱走が国内の凶悪犯罪発生数を微弱ながらも減少させたのは真実であり、まさしく、彼という存在は新たな法となろうとしていた。

 

 

「もうわかったってばあ」

 浅海遥。警視庁の門前で電話口の故郷の母親からこっぴどく叱られる。夏焼はそれが終わるのを涼しい車内からタバコをふかし待っている。

「車はべんしょーするから!」

『当たり前でしょ!勝手に持っていっちゃって!』

「いますんごいネタつかんでてそのあれで新車にして返すからさー!絶対!」

『まだ怪しい雑誌なんかやってるの!?』 

「怪しくないから!これがあたしの天職なの!じゃあ人待たせてるから!」

 浅海は一方的に切った電話口にベーと舌を出し夏焼が待つ車へと小走りで向かった。

「遅せえぞ。住居侵入で逮捕するぞ」

「ひどい!鬼!」 

 夏焼二瓶浅海、そして三四十代のサイバー班小林を乗せた車のホイールが灼熱のアスファルトを転がる。

 

 

「いらっしゃい!あら牡丹ちゃん!今日は一人なのね!」

「うん。いつものくださーい」

「すぐ作るね!」 

 牡丹は昼時のピークを終え少し客足の落ち着いたラーメン屋の暖簾をくぐり、未だ遠足の筋肉痛が癒えぬ体にムチを撃ちカウンター席に腰を下ろした。

 女性店主が一人で回している、スミレに教えてもらったこのラーメン屋『陽気なアコちゃん』は、どういう訳かめちゃくちゃうまい。

 何の香りかはわからないが鼻腔から脳髄を優しく刺激する香ばしい匂い。何味かわからないが宝石のように輝く濃厚なスープに黄金の麺。そしてその上に乗る雑なトッピング。それがまたいい。すごくいい。気取ってなくてめちゃくちゃいい。五百円。完璧だ。最近の阿保みたいにお高くとまったラーメンとは違う。次元が違う。裏次元の味だ。

「最近何か物騒だねー」

 店主は最近話題の女子学生連続失踪事件についてあーでもないこーでもないと生ゴミにもならない議論を垂れ流すワイドショーを見て言った。牡丹はいいからラーメンを出せとそれに適当に相槌した。

「牡丹ちゃん」

「は、はい!」

 店主は手を拭った布巾を調理台に置き、普段は見せない神妙な面持ちで牡丹の名を優しく呼んだ。牡丹は自身のあまりにも適当な相槌に店主が怒ってしまったと焦る。

「…やっぱいいや。何でもない!ちょっと昔を思い出しちゃった!牡丹ちゃん見てるとどうもねー昔のあたしとねー被っちゃうのよ!」

「へ?」

「いいからいいからはい!アコちゃんラーメン!煮卵サービス!」

「え、いいんですか」

「牡丹ちゃんにはがんばってもらわなきゃね!」

「アコさん!いただきまーす」

 牡丹は割り箸を勢いよく割りスープの中にするりと差し込んだ。牡丹が最高の一杯を楽しんでいると、古びた引き戸が開きにくそうに開いた。

「アコさん。ラーメン大盛りで」

「げ」

「人の顔見てそんな顔すんな」

「せっかくのラーメンが台無しなんだけど」

「チミたちは相変わらずだねえ」 

 入店してきたのは成田だった。成田は牡丹といつものやりとりをし、牡丹から一番遠い席に座った。

「アコさんごちそうさま。お会計置いとくね」

「はーい!またねー!あ!そういえば」

「?」 

「じゃーん!今日から会員カード創りました!特典は…まだ決めてないけど!はい、記念すべき会員ナンバー一番!」

「そうなんだ。じゃあまたねアコさん」

 牡丹がまた開けづらそうな引き戸をガタガタと開け退店した。

「はいアコちゃんラーメン大盛り!」

「いただきます!」

 

 『陽気なアコちゃん』をあとにした牡丹。諸々書類を受け取るために学校へと向かう。

 成田が入って来たから何となく店を出てきたが、さっきのアコさんは何だか意味深だった。アコさんのような一般庶民が私のような美少女を見ていったい何を懐かしく思ったのだろうか。

 あの人。若い頃はブイブイ言わせてたに違いない。店の前に停まってるイカツイバイクを見れば想像は付く。牡丹は手に持ったままだった会員カードにデカデカと印刷された店主の顔を見ながら昔の彼女を想像した。その時。

 

「!?」

 

 牡丹が身体に急な浮遊感を覚える。次の瞬間、彼女の視界はなくなりバタンとドアが閉まる音だけが耳にささった。

 牡丹はすぐに理解した。これは誘拐だ。そりゃそうだ。こんな美少女が人気のない路地を歩いていれば。私が男だったら私だってそうする。

 自身の美貌に一通り自惚れた牡丹は、脱出する方法をやっと考え始める。

 女子高生連続失踪事件。きっとこいつが犯人だろう。弄ぶだけ弄んだあと山にでも捨てるのか。冗談じゃない。

 敵は一人?車に引きずり込めれて目隠しと轡されたけどその後は車が動くだけ。二人ならこんな美少女すぐにでも犯したいはず。一人なら牡丹ちゃんキックでイチコロ。

 牡丹は楽観的に自問自答を繰り返した。それが本心か否かは本人が一番よく理解している。

 

「ごちそうさまでしたー」

「はーいまたね!はいボーズ君は会員ナンバー二番!」

 気まぐれな引き戸はスムーズに開閉した。暖簾を潜る成田。少し歩く。正方形の厚紙を二つ折りにした会員カード。デカデカと印刷されたアコがこっちを見ている。捨てる気はないが捨てたらそれこそ呪いに掛けられそうな何処か魔力のある紙だ。

 

「お」

 

 成田は道端の側溝に何かを見つける。アコちゃんラーメンの会員カードだ。捨てられている。いったいどこの命知らずだ。おもむろにそのカードを拾おうと腰をかがめた成田はふと、店主の言葉を思い出す。

 自分は会員番号ナンバーツー。この世にこのカードはまだ二枚しか発行されていない。つまりこれは桜田のカード。桜田がポイ捨てしたのか。いや。桜田は口が裂けても性格が良いとは言えないが絶対にそんなことをするようなやつではない。

 落としたのか。いやありえない。『外』では完璧な桜田牡丹の鎧を身に纏うあいつがそんなミスをするはずがない。何か起きたのか。桜田の身に。成田は至急有田とスミレに連絡した。

「牡丹電話でない。学校にも来てないって」

「わかった」

 スミレの報告。桜田は本当に誘拐されたのか。有田はすぐに単車にスミレを乗せて牡丹の捜索を開始する。成田もすぐに駅の交番に向かおうとしたその時、唸りをあげる単車の排気音が彼の横で止まった。

 有田のマフラーではない。成田が振り向く。

 スカイブルーのライダースジャケット。小柄な体に合わないアメリカンタイプのバイク。フルフェイスで顔は見えないがこのバイクには大きく見覚えがある。

「乗って!それじゃ間に合わないでしょ」

 バイクに跨った女性はヘルメットを成田に投げつけ彼をバイクの後ろに乗せた。

「心当たりは!」

「ありません!でも例の失踪のやつだと思います!植木が不自然に折れ曲がってたんで車に連れ込まれたと思います!」

「やるだけやって捨てるなら山林ね。他に何かないの!」

 成田は精一杯牡丹について考えた。テレビで見てた時。転校してきた時。学校にて。『陽気なアコちゃん』にて。遠足にて。遠足。

「そうだ!GPS!アイツGPS持ってるはず!」

「何!あなたストーカー!?」

「違いますよ!遠足の時配られたのをあいつは捨てたんです!それをあいつが逃げないように砂浜で遊んでる間に靴ベラの下に仕込んだんです!あいつは今日それを履いていた!」

「やっぱりストーカーじゃない!」

「とにかく梅屋がGPSの片割れを持ってるはず!」

「オッケー!ちょっとトバすわよ…!」

 マフラーは激しい唸りと煙をあげ芽実高校へと向かう。

 

 こんな時にロッタがいれば。いくら力を込めても妖精の力は漲らない。あんな屈強で邪悪な物体と戦って来たのにこんなタンカスに弄ばれるなんて。屈辱だ。恥ずかしいとか悲しいとかじゃない。これは何も混ざらない純粋な屈辱。

 音もしない。山の中かどこか。現実的に考えて助けは来ない。気が付けば男は横に来ている。牡丹は一か八か鼻息の方へと頭突き一発かます

 …。彼女のスイングはいとも簡単に止められた。妖精の力がなければ女というのはこんなにも弱い。知っていた。本当はそんなこと知っていた。

 何かが顔に当たっている。熱い何かが。見えないだけ幸運か。

 終わった。犯されて死ぬ。来世はもっと謙虚に生きよう。最悪の一年だt

 

 バリーン!

 

 ガラスが割られる音。犯人と思われる男の声が車内に響く。

「!!」

「桜d

 ドスン。

 一瞬誰かの声がした気がした。しかしそれは鈍い殴打音により消えた。

 一体何が起きているのか。牡丹は表情筋をこれでもかと動かし何とか目隠しをずらそうと試みる。

「とりゃ!」 

 女性の声だ。さっきもこの人だったのか。牡丹は犯人がその女性に気を獲られているであろうことを推測し頭をぶんぶんと振り回す。

「痛ったーーいんだけど!」

 ついに目隠しずれた。れは確かハイエースと言うのだったか。大きい車だ。その中央でバットを持つ男。犯人だ。思ったより普通の容姿だ。こそしてそのバットを受け止める小柄な女性。頭にはフルフェイス。スカイブルーのライダースジャケット。いったい誰だ。 

 犯人はバットを捨て拳闘に切り替えた。フルフェイスの女性を力でもってぶちのめそうとしている。

「なめんじゃないわよ!」

 しかし女性はそれを身軽な身のこなしで躱し、時に反撃する。すごい。リリーさん程のキレはない。しかしこれは立派な戦闘術だ。

「おりゃ!」

 女性のハイキックが男の顔面に入った。しかし男はそれをものともしなかった。男は女性の腕を掴み反対の手でフルフェイスのシールドをあげ女性の顔を確認した。

「もう年かもおー」

 腕を捻り上げられ、足を払われた女性が弱音をあげる。牡丹の中で生まれかけた希望が音をたてて崩れていく。

 牡丹は男の脛に齧りついた。勇気とは決して目に見ることはできないし、手に取ることも叶わない。しかし誰もがその存在を肯定する。目に見えないのにだ。存在を証明できないのにだ。

 ロッタがいないからなんだ。妖精の力がないからなんだ。ぶっ殺す!それでも殺されたら呪い殺す!絶対に負けない!このフルフェイスの女性が勇気を思い出させてくれた!ありがとう!ありがとうアコさん!

 男が牡丹の頭を踏みつける。それでも牡丹は喰らい付いた。

 彼女の中には確実には勇気がある。それを証明できる者は一人もいない。しかし否定できる者も誰一人いない。その勇気の鼓動。それこそがこれから起こる奇跡を呼び覚ませたに違いない。

 

 バッシューーーーン!

 

「!?」

 男の顔下半分が突如破裂した。男は声にならない声をあげている。男はパニックに陥っている。この場にこの状況を理解できている者は一人もいない。

 サク、サクとこちらに近づいてくる足音。数秒後。ロックが掛けられているはずのバックドア

 ギギギギギギギィィン!

 激しい音を上げ、力づくでこじ開けられる。

「…無事か?」

 一目惚れとはこういう事を言うのかもしれない。何というスタイリッシュな登場。引き締まった体。タッパは百八十を超えているか。見惚れるほど綺麗な顔立ち。黒を基調とした飾らないファッション。そして子宮を震わす低い声。ヒーローとはまさにこういう人のことを言うのか。牡丹は思わず瞼を下げた。

「ムァアア!むあむあああむま!」

「やめとけ。喋れば喋るほどつらいぞ」

 

バキューン!

 

 黒い男性は何の躊躇もなく男の足を撃ち抜いた。黒い男性は牡丹を縛る拘束具を外し、彼の羽織物を彼女のはだけた身体に被せた。

「お姉さーん。生きてるかー」

「な、なんとかねー」

「そりゃよかった。そっちの坊主も生きてるな」

 そっちの坊主。牡丹が『そっち』に目をやる。するとそこには気を失った成田が倒れていた。

「お姉さん。とりあえずこの男はこっちで預かるから。お嬢ちゃんと坊主を連れて帰り。下に車置いてあるから。書いてあるところに返しといて」

 男性は女性のフルフェイスを優しく下し、車のキーとメモを手渡した。

「じゃあお言葉に甘えて…。ほら!牡丹ちゃん!行くよ!」

 女性がふらつきながら立ち上がり気を失う成田を抱え、もがき苦しむ男を跨いで車外へ出た。

 牡丹はそれに続かず悶絶する男を見下ろし続けていた。

「やめときな。後戻りできなくなるよ。君が人間でなくなる」

 黒い男性が牡丹の肩に手を置き優しく静止した。

 牡丹は今自分が怒りに支配されていたことを思い知った。数秒間の記憶がない。頭の中では足元にビクビクと瀕死の魚のように震えるこの男をさらに踏みつけ、蹴り飛ばし、ぶち殺そうと思い描いていた。肩に乗った黒い男性の手は血が通っていないかのように冷たい。 

 黒い男性が牡丹を車から下す。牡丹は男性を見上げ、問う。

「そいつ、この後どうするんですか」

「殺すよ」

「え」

「君は奇跡的に助かった。けどこの男に全てを奪われた女の子とその家族がたくさんいる。オレは少しでも残酷な方法でこいつを殺す。あの世に行った後もオレを思い出し、永遠に恐怖の渦から抜け出せないような残虐なやり方で。…さあ行きな。夜の山は人殺しが出るぞ」

「最後に名前だけでも!」

「全国の駅に名前が張り出されてるよ。顔写真付きでね」

 バン!黒い男性は牡丹に微笑み、後部扉を勢いよく閉めた。

「さあ帰ろ。もう疲れたよー」

 フルフェイスの女性が牡丹の手を引く。背後では男の断末魔が響いている。

 今背後で人が殺されている。あの人は人殺しだ。でもあの人からはあの誘拐犯のような気持ち悪い、変態的な雰囲気はまるでなかった。むしろ好意的な、正義と覚悟に満ち溢れた、梅屋先生やリリーさんに近いソレ。

 でもやっぱきっとあの人はとてつもない数の人を殺している。フルフェイスの女性は彼顔と名を知っている様だった。全国の駅に…。あの人はそんなに有名人なのか。

 いったいどんな人なのだろう。もっと知りたい。殺人を許容する事なんてできないけど、でもでもとにかくかっこよかった。セクシーな顔、声、体。きっとこういう時に使うんだろう。あの人なら「抱かれてもいい」。

 それに比べこのイガグリ。本当に何しに来たんだ。

「起きろ!自分で歩け!」

 牡丹は成田の頭をボコんと殴り、ケツを蹴り上げた。

「起きてんだろ!歩け自分で!バカ!」

 成田は目を覚ました。目を覚ました瞬間道に捨てられた。

「な何すんだよ!」

 強姦寸前。そして体感した殺人の瞬間。普通の女子高生ならショックで精神が壊れてもおかしくない。それなのにこの子は強い。本当に。

 

「さあ帰ってラーメンでも食べよっかあ」

 フルフェイスの女性は牡丹を見てまた若い頃を思い出し、微笑んだ。