第5章

第5章 

 

① 4月4日

 

 始業式。梅屋は体育館の端に並び立てられた教職員の列の中にいた。

 梅屋は事前に配布された案内の通り再び有田、成田らの騒がしい面々の担任となった。去年よりも少し大きくなった彼らの後ろ姿は感慨に浸たるに値する。

 そんな梅屋の隣では英語教諭の桃井紅葉がいかにも退屈そうに足をくねくねと動かし、ついには梅屋に小声で語り掛けてきた。

「梅屋先生、ベランダのミントが元気ないんですけどどうすればいいですか」

 いつでもどこでも訳の分からない良い香りを漂わせている紅葉先生の質問を、周りの教員らにばれないように梅屋もまた小声で返答する。

「ミントはですね…」

「ふむふむなるほど」

 紅葉先生は右手で顎のあたりを触りながら小さく頷き、再び誰も聞いていない校長の話に注視するふりをはじめた。梅屋は朝から刺激的な年下の女、紅葉先生の笑顔を何度も脳内で反芻した。

 教室へと向かう廊下でもなおそれを反芻する気持ちの悪い梅屋の意識は、新年度だというのに今日も例によって何やらこちらをチラチラと見てくる有田と成田によって引き戻された。

 とはいえ新年度から奴らに構ってはいられない。今日から担任する生徒達もいくらかいる。なめられてはいけない。勃起の収めた股間を誰にも悟られずに出席を取る。

 気味の悪いニヤつきを浮かべる有田と成田。それを懐疑的な目でみる梅屋。やけに静かな面々。初めて梅屋が担任となった生徒達にも妙な空気が漂う。

 

 その頃。芽実高校と正反対の方角、東京湾岸にあるとある私立高校。当校の芸能科に通う桜田牡丹は、外に張り出されたクラス表から自身の名前を探していた。

 別に毎日教室にいるわけでもないし、彼女は特にクラスメイトらには関心がなかった。しかし彼女は何を隠そう、彼女の担任教師が生理的に無理だったのだ。

 俗にいうアイドルオタクであった彼女の担任は、牡丹の所属するグループのイベントに頻繁に参列し、何故か関係者面をして馴れ馴れしくアイコンタクトしてきたりした。

 それならまだ別に無視すればいいのだが、彼は明らかに牡丹を踏み台に他のメンバーと交流を持とうとしていた。それが牡丹にとっては憤死に値するほどの嫌悪の源であった。

 最近厄年のようにトラブルが続く牡丹である。悪い予感しかしない。もちろんそれは寸分狂いなくズバリ的中する。

 教室で頭を抱える牡丹が少し目線をあげるとあの男がこちらを見てにっこりと微笑んできた。激烈な吐き気を催したが乙女は毎朝朝食を抜いきているので何とか難を逃れた。

 もう耐えられそうにない。漫画のような青春は望まぬが人並みの高校生活を送らせてくれ。牡丹はすぐに手元のケータイで編入できる高校の検索をはじめた。 

 夜も暮れ、牡丹が自宅の扉を開ける。その瞬間鼻に襲い掛かる謎の匂い。部屋の中も煙で満たされている。

「ボタちゃん!おかえり!」

ひまわりさん、いったいいつまでいるの?」

 ひまわりが木の皿に盛られた白濁したドロドロの何かを机に二つ置き、屈託のない笑顔で牡丹の遅い帰りを迎えた。

 ひまわり曰く、悪臭ではないが嗅いだことのない謎の臭いを発するこれは、この前猿に教えてもらった料理ということだ。

 それを美味しそうに頬張るひまわりの顔。悔しいけどかなり可愛い。牡丹はそれをおかずにコンビニで買ったサラダをつまんだ。

 最近気付いたがひまわりはかなり聞き上手である。牡丹のどんな愚痴でも最後まで真剣に聞いてくれる。悩み相談をすれば良き回答が返って来ることは決してないが、心は何だか軽くなる。

 今日も牡丹は例の男性教諭についての愚痴を自然とひまわりに吐いていた。

「うーん、じゃあリーダーの高校に転校しちゃえば?」

「リーダーって?」

「梅屋さん!」

 梅屋をリーダーと呼ぶ理由はさておき、牡丹はそれを中々悪くない回答だと思った。

 牡丹はひまわりの顔を一度見た後、何となくひまわりの作ったソレをスプーンの先にちょこっとだけつけて口に運んだ。

 バナナとクルミとワサビが創り出す三角形のちょうど真ん中のようなこの何かは、無理やり形容詞をつけるとすれば、めちゃくちゃ美味しい。悔しいけど。

 牡丹がいつのまにかソレを平らげ、ひまわりは満足そうに笑っている。

 再三「就職決まったら出て行ってね」とひまわりに言っていた牡丹であったが、牡丹はこの日を境にそれを言わなくなった。

 

② 4月10日

 

 始業式から一週間、有田と成田は未だに静かだ。怪しい。何を企んでいる。それよりも紅葉先生の首筋だ。これは犯罪的だろう。何故こんなものを晒して公共の場を歩いている。露出狂と変わら

「梅屋先生週末は彼女さんとデートでしたか?」

 紅葉先生の衝撃的な質問に梅屋は今自分がいったい何を考えていたのか全て失念した。

「か彼女なんていませんよ!」

「あらそうですか」

 梅屋のつまらない回答を聴くや、紅葉先生は椅子をくるりと回し、学年主任の退屈な話に耳を傾けるふりに戻った。

 何がおきた。嫌われたのか。この一瞬で?そんなことがあるのか。いや。聞いたことはあるぞ。女の見切りは早いと。そうい

「ということで梅屋先生よろしくお願いします」

「!」

 学年主任の話を一切聞いていなかった梅屋に一枚の書類が渡された。同時にチャイムが鳴り、教員らは一斉に立ち上がり自教室へと向かう。まあ後で目を通せばいいだろう。その紙を出席簿のファイルにはさんだ梅屋も職員室を退散し教室へと向かった。

 教室の前に辿り着き、ふと閉まる扉を見る。今日は騒がしい。何か企みは終わったという事か。それとも自分が入ればまた静まるのか?どうなんだ。有田よ、成田よ。

 梅屋の手がドアに掛かる。その時。

 

「廊下なんか畳臭さくない?」

 

 背後からのそれはどこか聞き覚えのある声だった。いやもちろん自分が勤める学校なのだから、聞こえる声に聴き覚えがあるのは当然なのだが。それは何というか、『プロ』の声色だった。

 梅屋は勢いよく背後を振り返る。そこにはいるはずのない『プロ』、桜田牡丹が芽実高の制服を身に纏い、不敵な笑みを浮かべ立っていた。

「今日からお世話になります梅屋先生♡」

「な何してるんだこんなところで!聞いてないぞ!転校生なんて!」

「そんなん知らん。そっちのミスでしょ」

 梅屋は思い出したように慌てて先ほど出席簿にはさんだ紙を取り出す。そこには確かに『転入生周知』の文字が記されている。梅屋はもう一度牡丹の顔を見る。彼女は感情が一つもない『プロ』の笑顔でこっちを見ている。中が騒がしい原因はこれか。

「…とにかく。ウチらは赤の他人だから。よろしく」

 牡丹は顔をゼロに戻し、まだ腑に落ちていない梅屋の背中をポンと叩き、教室へと押し込んだ。 

 教室内はやはりどこから聞きつけたか転校生がやってくるという噂で世話しない。梅屋が皆を鎮め、改めて転入生がいる旨を発表する。

 梅屋が教卓から廊下方面を見る。すると無勘定の彼女の顔が瞬時に百二十点の笑顔に切り変わった。

 牡丹のローファーが優雅なステップを刻む。泣く子も黙る超絶美少女の登場にクラスは沸くどころか一周回って静まり返った。

 米粒ほどの小さな顔にメロンほどの大きな目が埋まる。ガラスのような光沢を持つ亜麻色の髪から、あるいは全身から垂れ流される妖艶な香りが教室に満たされる。艶やかな唇からは鼓膜を撫でるような優しい声色で自己紹介が発せられた。

 そして修羅の如く纏われる圧倒的な存在感。男子連中は皆発情期のオスとなり、全ての睾丸は精子の製造を開始。女子連中は皆恐れおののき、自らのニキビ細胞が次々に死んでいくのを感じた。

 梅屋が後方の空席へと牡丹を誘導する。教卓脇から空席までの約八歩半、教室の中央を優雅に割いた牡丹は、オスとなった男子連中を見下ろし、今夜私でよからぬ事をするのだろう?と心の中で嘲笑した。

 男子も女子も芸能人しかいない芸能科高校では味わえないこの超絶な優越感。快楽。牡丹は男子連中よりも早く絶頂に至った。

 休み時間、牡丹を見に来る野次馬は多かったが、話しかけてくる者は誰一人いなかった。

 牡丹が圧倒的な生物としての優位を堪能していると、世間知らずのバカ猿が二匹、身の程も知らずに話しかけてきた。

 とりあえず適当にあしらおう。牡丹がただの笑顔を準備する。…しかしながらそのバカ共の話は中々に興味深かった。結局、牡丹は人語を話す猿の話を最後まで聞き入った。

「それホント?」

「マジ」

「ヤバいね。いいこと聞いた」

「ところで猫が歩いててさ、目の色何色だと思う?」

「は?え、黒?」

「それって今日のパンツの色らしいよ」

 牡丹はこんなクソ猿共の話に耳を傾けた自分を猛烈に恥じた。牡丹は今すぐに梅屋を目の前に正座させ、こいつらにどういう教育をしてるんだと小一時間問い詰めてやりたかった。

 猿共は何やら満足した様子でキャッキャと教室を出ていった。とても気持ちの悪い二人を珍しい昆虫を見るような眼で眺めていると、一人の女子が話しかけてきた。

「あれはいつもあんな感じ」

「あ、そうなんだ」

「右が有田。左が成田」

「覚えずら」

「覚えなくていいよ。私はスミレ。よろしくね」

「よろしく」

 牡丹は、今までちやほやされてたであろう、(自分には劣るが)しゅっとした端正な顔立ちのスミレが、自分に男衆の視線を奪われ逆上してしまわないかと懸念した。

 それにしても、先ほどのバカの話、前半は非常に興味深い話だった。

 

③ 4月12日

 

 牡丹転入の翌朝、二階廊下には昨日中に『桜田牡丹』が転入してきたことを知った先輩連中がその姿を一目見ようと群れを成していた。

 牡丹はその全てに、写真は撮らないでね、握手だけならいいよ、と丁寧に対応した。

 仕事と何ら変わらぬこの状況に、オフでいれた芸能科を一時の衝動で出てきてしまったことを多少後悔した。

桜田、職員室で梅屋先生が呼んでたぞ」

 先輩連中に取り囲まれていた牡丹の名を少し遠くから呼びつけたのは、昨日の変態サル二号成田だった。牡丹はこんなにも役に立たない無駄な名前を記憶してしまった自分を恥じた。

 とはいえこの状況を抜けられるのはラッキーだ。牡丹は先輩連中の輪を抜け、言われた通り職員室へと向かった。

 その頃職員室では今日もまた儀式のように定例朝礼が行われ、例によって紅葉先生は退屈そうに机の下で何かカチャカチャと音を鳴らしていた。

 梅屋がその姿を横目で見つめる。すると突然、紅葉先生の薄い背中がピクリと動いた。梅屋はすぐに背骨を天に伸ばしまっすぐ前を見る。

「梅屋先生!解けました!」

 彼女は嬉しそうにこちらに身体を向け、二つに分離した知恵の輪を見せびらかしてきた。

 何ておてんばな生物なんだろうか。口に出してしまおうか。今あなたのことずっと見てたんですよ。と。彼女なら許してくれるのではなかろうか。いや。

「紅葉先生!会議中ですよ!」

「はあ。優しいのは彼女さんにだけなんですねー」

「ああのですね、彼女なんていませんよ!何で最近そんなことばかり言うんですか!」

 すると紅葉先生は解いた知恵の輪を自らの机の引き出しに戻し、中からまた新たな知恵の輪を取り出し遊び始めた。

「梅屋先生のクラスには優秀な探偵さんがたくさんいますからねー」

 優秀な探偵。梅屋の頭にはすぐに二人の男の顔が浮かび上がった。あいつら。紅葉先生に何を吹き込みやがった。会議が終わるやいなや、梅屋はすぐに席を立った。彼が職員室の扉を開けるとそこには、何やら朝からお疲れの様子の牡丹が立っていた。

「話って何ですか」

「話?」 

 話の噛み合わぬ牡丹に事情を聴取すると、彼女は不思議なことに自分に呼び出されてここに来たのだと言う。もちろん梅屋には牡丹を職員室に呼んだ覚えなどなく、より詳しい状況を牡丹に問うた。

「ハg…成田君に言われて来ました」

 梅屋は牡丹の現状、そして成田という男の生態を踏まえて事態のおおよそを察した。

「成田が逃がしてくれたんだな」

「はい?」

「もみくちゃにされてたんだろ?そんな君を見てさ、逃がしてくれたんだよ。あいつはそういうやつだから」

 牡丹は体内に感じたことのないキュンを感じた。が、すぐに成田の気持ち悪い顔を思い浮かべたのち、それが気のせいであったと我に返った。

 普通高校か。そういえばこの前何の感情移入もできなかった学園ドラマを演じた。ヒロインは私だ。申し分ない。これ以上ない最高のキャスティングだ。しかし脚本がクソだった。クソ以下のゲロに集るダンゴムシのような脚本だった。

 それに比べてここにはそこら中に青春が転がっているじゃないか。昼休み、放課後。たったの二日で初々しい恋人達を何組見せつけられたか。それに生涯の親友との出会い、一人でバカやって笑われて、二人でバカやって笑い合って。何の信念も情熱もない事務所ゴリ押し俳優を宣伝するためだけのドラマとはわけが違う。あんなんで感動するのは人生経験のないション便くさいメスガキ共くらいだ。

 それに相手役の若手俳優だかなんだか知らねーヤツも中々のアンポンタンだった。何であんなニキビ一つないフニャチン野郎が人気なのか全く持って理解に苦しむ。

 男児ならばニキビの一つや二つ作れバカ。いちいちお肌のケアなんかやってんじゃねーよ。オカマかお前は。しつこく連絡先を聞いてくるもんだから最寄りのココイチの番号を教えてやった。あいつは今頃カレーでも食ってっかな。

「教室に行こう」

 梅屋は牡丹の内心など知る由もなく廊下を歩き出し、牡丹もそれに続いた。

 牡丹は自身を悟った。自分がこっちに来たのは一時の衝動だけではなかったのだということに。

 そしてふと、昨日バカが言ってた話を思い出す。

 

「そういえば梅屋先生ってひまちゃんとヤったの?」

 

 梅屋はもはや何の形相かわからない顔で振り返り、そんなわけないだろうと泣きそうになりながら、ギリギリ聞き取れ得る言語で反論した。

 時を大胆に戻す。ひまわりがはじめて梅屋らの前に現れた時。一撃でノックアウトされた彼女を梅屋は公園のトイレ裏で介抱したが、実はこの最も見られたらまずい瞬間を、最も見られてはまずい人間に見られていた。

 この日、特に訳もなくその辺をウロチョロしていた有田はトイレ裏で女を抱く梅屋の姿を目撃。さらにその数日後、訳もなく自転車を漕いでいた成田が人里離れた山中に女を連れ込む梅屋の姿を目撃していた。

 有田と成田はこのスクープをすぐに広めるでなく、仲間内、そしてある特定の人物にだけ密告することとした…。

 

 牡丹は、何もそんなに怒らなくても、と笑いを堪えるのに必死で、こちらもギリギリ聞き取れる程度にごめんなさいと平謝りした。

 廊下の奥の方では有田と成田が梅屋を腹を抱えて見ている。その姿を発見した梅屋は、逃げる二人を一目散に追いかけていった。

「前の高校もこんな感じ?」

 いつのまにか隣にいたスミレが牡丹に問いかける。

「いや、もっと上品」

「そっか」

 スミレはそういってほほ笑むと、今日のホームルームは中止かなあと、両手を天に伸ばして呟きどこかに行ってしまった。彼女の顔は何だか勝ち誇っているように見えた。

 今日は後ろの扉から教室に入室する。牡丹は後方の自分の机に掛け、教室内の生徒らの談笑を授業が始まるまで静かに眺めた。

 

 

 風が心地よい夜。ロージエは一時梅屋のもとを離れていた。

 五匹の妖精は基本的に各々の選定した人間の近くに寄り添っているが、全くその限りという訳ではない。

 デルフィンとロッタはどこかで夜な夜な愛を育んでいるみたいだし、アイビンはよくドラセナを見失う。

 

「よく気付きましたね」

「君は聖園の香りがまだ強い。何しに来たんだい」

「何やら大変みたいですね?総帥は酷く懸念なされてますよ」

「問題ないよ。人間たちはよくやってくれている。聖木の成就が脅かされるほどの脅威ではないね」

「いいえ、そうではなく。総帥殿はあなた方について懸念されているのです。…どうやら皆さんひどく人間たちに情が沸いているみたいじゃないですか」

「冗談はよしてくれよ。僕たちの思いは常に大聖木様とアルプローラに向いている」

「それならいいのですが。とにかく私はあなた方の監視のためにこちらに追加で派遣されましたので。では」