第3章

第三章

 

① 3月11日

 

 卒業式が今まさに執り行われようとしている。ストーブのガスの匂いが漂う体育館。垂れ下がる紅白幕が卒業生たちの頬を桜色に染める。

 訳もなく涙する生徒、新しい舞台に心を躍らせる生徒、また反対に兜の緒を締めなおす生徒、そして何やら思いに耽る教師が一人。

 あの夜、梅屋とリンドウ、そして気の乗らぬ牡丹は妖精の促す方角へと駆けた。

 都会のアスファルトをカッカと蹄を鳴らす前方の二名。牡丹はすかさず「タクシーで」という選択肢を彼らに提示すると、男共はそれだ、という顔を浮かべ一斉に車道へ手を挙げた。牡丹は一連の彼らの滑稽さに頭を抱えた。

 すぐにタクシーは捕まった。が、車中の牡丹の心境は穏やかではなかった。

 このタクシー代はいったい誰が払うのだろうか。言い出しっぺの私に押し付けられやしないだろうか。さすがに社会人の男二人がこのような美少女に支払わせるわけないか。いや、でもこの二人ならありえる。この二人は普通じゃない。などとすぐ後に待ち受け得る危険など忘れ、目の前の懐事情ばかりを気にしていた。

 タクシーが現場に到着する。助手席のリンドウが財布から煌めくカードを取り出すのを確認した牡丹は、それに気付かないふりをしてさっさとタクシーを降りた。

 「割り勘にさせてください」と頑なな梅屋、「駄賃はいらない」とまた頑ななリンドウ。それぞれを車内に置いていき、一足先に妖精の示す場所へと向かう。

「…あれも、あなたたちの仲間?」

「あれは多分アイビンちゃんの」

 現場に辿り着いた彼らを出迎えたのは、あの謎の物体と戦う緑色の光を持つ青年だった。

 青年の強さは五十数メートル離れた路肩のここからでもわかった。あの物体と戦ったことがある三人にはなおさらだ。

 あの緑色の光を持つ青年はおそらくロッタの言ったアイビンという妖精に導かれた人間だろう。しかし、彼のその強さは三人に彼が人間でない可能性も少し考慮させた。

 緑の青年はどういう理屈かわからぬが、自在に『蔦』を操り物体と交戦している。繰り返しになるがどういう理屈なのかは全く持って不明だ。

 緑の青年は地面から、あるいは樹木中から蔦状の何かを出現させ、それらを自在に操り、ついにはたったの独りで三人が苦戦を極めた謎の物体を撃破してしまった。タクシーが到着してわずか二分強の出来事だった。

 呆気に取られる牡丹と梅屋、そしてその正体を確かめんとリンドウは急いで緑の青年の元へと駆け寄る。

 しかし緑の青年は自らに駆け寄るリンドウの姿を捉えるやいなや、水に怯える狂犬病の犬のようにその場をさっさと去っていってしまった。

 その背中は細く引き締まり、実に無駄のない肉体美だった。加えて見せつけられた特殊能力、人間離れした生物としての単純な強さ、彼はまさに獣のようだった。

「アイビンは?」

「探したけどいなかった」

 妖精達も妖精達でやけに静かだった。三人と三匹、しばらくその場で崩れたままの物体を見つめた。

 気が付けば卒業式は終わっていた。梅屋は一人、体育館の端で自分を戒めた。

 

② 3月12日

  

 都市伝説。それは信じるか信じないかを個々人に委ねられた、確認のしようがない暇つぶしの種である。

 新たに明けた月曜日。天下を取った二年次の生徒たちは廊下を気持ち胸を張って歩いている。教員らがその浮かれた連中に喝を入れるべく、職員室から働きバチのように各担当教室へと散っていく。

 梅屋も担任する一年B組の教室をいつもより勢い良く開けてみた。すると生徒たちは特に浮かれる様子もなく、いつもと同じように何やら馬鹿な話題で賑わっているようだ。

 クラスのおしゃべり一号茶髪の有田とクラスのおしゃべり二号坊主で眼鏡の成田。梅屋は出席簿を開きながら彼らの話題を盗み聞いた。

「黒い敵・・・をヒーローが」

 梅屋は思わず手に持っていたボールペンを滑り落とした。会話を止める生徒達。静まり返る教室。梅屋はすぐに笑顔を取り繕いその場を和ませようとしたが、生徒たちの緊張感は解けなかった。

 『黒い敵とヒーロー』あまりにも心当たりがある。まさかこいつらは自分の事を知ってて煽ってきているのか。しかしここでもう一度あの話題を掘り返せばそれはそれで怪しい。素性はばれていないか。いないよな?いないんだな?大丈夫だな?その目は何も知らないピュア眼だな?有田。有田よ。無垢だな?何も知らない無垢な目だな?信じていいんだな?

 梅屋から流れ落ちる玉のような汗が生徒達をいっそう怖がらせた。

『絶対にお互いの素性を守秘すること』。これは梅屋、リンドウ、牡丹が互いに交わした契約であるが、梅屋はこの時、東京という街で戦いが続いていく限り、いつしかそれがばれてしまうのは時間の問題であると悟った。

 

③ 3月13日

 

 「みんな元気かな」

 黄色い妖精ガベリアが、ふと呟いた。

 頭頂部に妖精をちょこんと携え、湯気の立つほうじ茶を熱そうにちびちびと啜る女性。黄色い妖精ガベリアに導かれた人間、菊江ひまわりである。

 ひまわりもまた、他の人間らと同様に聖木うんぬんをガベリアに導かれたのだが、ひまわりにはいまいちそれを承諾しかねている理由があった。

 というのも彼女は今、おかしな都市伝説が蔓延る首都東京から八百キロメートル離れた北の大地、北海道に住んでいる。

 北海道の真ん中で広大な牧場を構える彼女の家庭は二十一歳で長女のひまわりの下に双子の姉妹と一人の弟がいる。

 ひまわりは入院中の母親の代わりに父親の農作業の手伝い、家事のほとんどをこなす。こなす、と言っても決してそれはこなせていなく、不器用を極めた彼女は洗濯すらままならず、一度たりともまともな料理をつくった試しなどない。

 ただ一つ言えるのは、ひまわりにとって『護らなければならないもの』とは、見知らぬ土地の見知らぬ聖木なんかではなく、生まれ育ったこの温かい家庭であり、つまるところ、ひまわりは母親の病が完治ないし、牧場を継ぐ弟が高校を卒業するまでの間、ここを離れるわけには決していかなかったのだ。

 花の香りにつられ、不運にも北海道行の花卉輸送航空便に乗り込んでしまったガベリアだったが、ひまわりに出会えたことは結果的に幸運だったと考えていた。

 はじめは何も知らずに彼女を聖木へと導こうとしていたガベリアだったが、ひまわりの人となりに触れ、さらに彼女の背負うものを知ったガベリアは、ついには彼女を聖木へと導くのをやめた。

 しかしガベリアは新たな人間を探さなかった。それはガベリア自身がひまわりという人間の暖かさに居心地の良さを見出してしまったからである。

 聖木なら他の四匹の妖精、いやアイビンを抜いた三匹の責任感の強い妖精達が何とかしてくれるだろう。半ば人間界観光の為にこちらに来たガベリアはもう難しい事を考えるは辞めていた。

「みかん買ってきたよー」

「ありがとうひまちゃん。でもね、これはポンカンって言うのよ」

 ひまわりの母、菊江秋桜、旧姓石蕗秋桜は百万回見たひまわりの落ち込む姿に笑顔を添えた。

「お料理の方はどう?少しはできるようになった?」

「うん!もうねえばっちしだよー」

「そう!早くひまちゃんのご飯食べたいな」

「やめとけ。いくら胃袋があっても足りんぞ」

 父、菊江牛蒡の言葉にひまわりは百万一回目の落ち込みを見せた。

「そんなひどいこと言わなくたっていいじゃない。せっかく作ってくれてるんだから」

「牧草でも食べてたほうがましだ。なんだ、お前の病院食うまそうだな。いっそ家族みんなで入院しちまうか」

 そう言っていつものようにひまわりを貶し散らす牛蒡の顔は無精ひげを淫らに蓄え、ずいぶん痩せこけている様に見えた。

「ひまちゃん、ニキビできてる」

 秋桜がひまわりの白い肌にぽつんと灯るニキビに優しく触れた。

「おでこってことは思われニキビね」

「毎日牛のウンコばっか触ってるこんなもんを思うやつなんていねえよ」

 百万回見た両親の痴話喧嘩に、ひまわりは自分がまた貶されていたことも忘れほのぼのした。

 彼女のジャンパーの胸ポケットには、彼女を『思う』張本人が、彼女の家族愛をまじまじと見せつけられていた。

 

 

④ 3月23日

 

 三月下旬、北海道の夜は依然凍えるほど寒い。それでも人々がこの土地に根を張り続けるのは、その寒さこそがそれぞれの家庭の温かさを強調しているからだろう。

 先人の言葉を借りるならば、『夏が暑いのは太陽の熱さを忘れないため。冬が寒いのは人の暖かさを忘れないため』、といったところである。

 この大地の冬が本州に比べて長いのは差し詰め、人の暖かさに溢れた土地だからと言えるのではないだろうか。

 さて、いくら外が寒かろうが酪農家の朝は早い。まだ夜の八時だっていうのにひまわりはすでに床に就いている。

 普段はひまわりの懐で温もりに溺れているガベリアだが、今夜は何となく二段ベットが二つ並ぶ子供部屋の真ん中の机ですやすやと眠るひまわりの顔を見ていた。

 

「え、ナニコレ…」

 

 背後からの殺気に似た問いかけにガベリアが振り返る。するとそこには双子の妹、三女の薊がこちらにクリクリした瞳を覗かせていた。

「…ウチのこと見えんの?」

「うわ!しゃべった!雛姉!こっち来てなんか変な虫がしゃべったよ!」

 双子の姉、次女の雛菊が急いで子供部屋に入ってくる。

「うわ、ほんとだ。なにこれ可愛い」

 ガベリアは二つのことに驚いた。一つはここに来るまでに数多の人間の前を通ってきたが、ひまわりを除いてガベリアの姿を視認できた者は誰一人としていなかった。にも関わらず、この姉妹は当たり前のように自分の存在を視認しているということ。

 そしてもう一つは、彼女らが揃って大声をあげたにもかかわらず、ひまわりはうんともすんとも牛のように熟睡を続けていることに。

「ねえさっきみたいに何か喋ってよ!」

 薊の問いかけにガベリアは少々状況に怯えながらも答える。

「ウチはガベリア。植物界から来た妖精」

「うわ、めっちゃじゃん」

 雛菊が薊とは対象的に静かに驚いた。

「で、妖精さんが何でうちの汚い机に?」

 ほんの数分だけ先にこの世に生み落とされただけでこんなにも性格が異なるのか。と思わせるほど雛菊は冷静だった。薊と比べてそれが長けていたのはもちろんのこと、ひまわりと比べても、雛菊の佇まいはまさに姉のそれであった。ガベリアは雛菊の誠実さに惹かれ、この双子に事の経緯を話した。

「なるほど。つまりウチのポンコツ姉貴が植物界の運命を担ってるかもしれないと」

 ガベリアはうなずき、その理解の速さに本当にあのひまわりと血の繋がった人間なのかとさらに懐疑的になった。

「でも、ガベリアさん的にはウチらから姉さんを取るのが申し訳ないと」

 ガベリアはもはや雛菊の理解力に平伏すしかなく首を縦に何度も往復させた。

「それでこんなところに座ってたのね」

「つまり?」

「まあ、つまりウチらが姉さんの代わりに家事をすれば世界がハッピーってことだってさ」

「なるほど!」

「うっせーなさっきから!」

 彼女たちの弟、末っ子の紫苑が襖をビシャンと開け怒鳴ってきた。

「紫苑、ほらちゃんと挨拶して、妖精のガベリアさん」

「うわ、なんだよそいつ…」

 もはや当たり前のように紹介されたガベリアを紫苑もまた当たり前のように視認した。何で皆今日まで気付かなかったのだろう。ガベリアは不思議に思ったが、まあ現実はそんなもんかと深くは考えなかった。

「まあもうその話は終わったから。とりあえずあんた、明日から姉さんの代わりに牧場がんばりなさいよ」

「は?何でだよ!」

「しょうがないじゃない。地球の未来のためよ」

「そうだそうだ!」

「二人はひまわりがいなくなってもさみしくないの?」

「「全然」」

 あんなに毎日家族のために尽力しているひまわりが少し可哀想に思えた。

「とにかく、ウチらは姉さんの代わりに家事をやるから、紫苑はできるだけ父さんの仕事を手伝いなさい。もちろんウチらもできる限り手助けするから」

「なんでそんなにウチに協力してくれんの?」

「何となく。まあ姉さんならなんとなく世界を救っちゃいそうな気もするし。知らないけど」

「たしかに!なんとなくねー」

「それにいつまでもこんなクソ田舎にいたら来るものも逃しちゃうし、姉さんには東京でステキな殿方を見つけてきてもらわなきゃさ。まあ父さんとかはウチら説得しとくわ」

「うん!ガベリアちゃん!ひま姉と世界をよろしくね!」

「おい!ふざけんな!勝手に決めんな!オレは東京に行ってバンドやんだよ!」

「いつまでもガキみたいなこと言ってんじゃないよ。アンタがひくのはギターじゃなくてくっさい牛さんがお似合いよ」

「うっせえブス!俺はもうこんな家出てく!」

「勝手になさいフニャチン野郎。あんたのソレより牛さんの乳の方が何倍も固いわよ」

 ガベリアは聞いたことのない言葉の応酬に度肝を抜かれた。

「大丈夫だよガベリアちゃん。これがね、男子の青春だから!」

「…まあでも本当に心配しないで。あの子にもあなたが見えるってことはあの子も実際は悪い子じゃないってことでしょ?」

 依然牛のようにグースカとあほみたいな寝息を立てる長女を見つめ、雛菊は一瞬妹の顔を見せた。ガベリアは三姉妹と弟を俯瞰で見てこう思った。

「あれ、紫苑君を東京に連れてけばいいのでは…?」

 

5 三月二十四日

 

 翌朝、とりあえず朝一の仕事を終わらせた牛蒡とひまわりが帰宅する。すると台所では珍しくせっせと朝ごはんの支度をする雛菊の姿が見えた。

「どうした。頭でもうったか」

「もう姉さんのご飯なんか食べてらんないからね」

「そうか。頭は無事だな」

 牛蒡はいつもと違う鮮やかな食卓に日課のテレビ占いの確認を忘れた。

「わあ雛ちゃんすごーい!」

 それを見たひまわりはまた自身が蔑まされていることにも気付かず出来の良い妹を心から感心した。薊が洗濯器を回し終え、四人が食卓につく。

「紫苑はどうした」

「家出するっつって昨日出てったよ」

「そうか」

 自分の若かりし頃と何かを重ねたのか、牛蒡はそれ以上聞かなかった。

 牧草の匂いが静かに香る独特の空間にて、昨晩よりも顔の濃い雛菊が味噌汁をトンと置き、口火を切った。

「父さん、姉さん明日上京するから」

「上京?出荷か?」

「婚活」

「婚活だ?こんなずんぐりむっくりが東京に行ってみろ。三歩ごとに輩に騙されては捨てられ騙されては捨てられ、莫大な借金を背負ってこっちに帰ってくるぞ」

 ひまわりは少し遅れて議題が自分であること、さらに遅れて自分が婚活する羽目になっていることに驚いたが、素早い言葉のラリーに割り込めずにいた。

「姉さんが行き遅れたら父さんのせいだよ。考えが古いんだよ父さんは」

「そうだそうだ!」

「なんだと?」

 ガチャン。

 玄関の扉が開いた。帰ってくる人物は一人しかいない。

 紫苑は水道水をコップに汲み、それを一気に飲み干した。炊飯器の白米を茶碗いっぱいに盛り、未だ熱を帯びた食卓に胡坐をかいた。

「紫苑。どこに言ってた」

「牧場見てきた。…姉さんに任せてたら牛が可哀そうだな。だから明日からは俺が牧場に入る」

 牛蒡と三姉妹は最後に家族に加わった紫苑の様々な初めてを見てきた。そして今日もまた、新たな紫苑の初めてを見た気がした。

「勝手にしろ」

 牛蒡が捨て台詞を吐き食卓を発ち背を向け家を出るその姿はまさに昨晩の紫苑そのものだった。

「よし。一件落着」

「ホントにいいのかなあ」

「いいのいいの。紫苑。やるじゃん。かっこよかった」

 雛菊が紫苑の頭を抱きかかえ撫でる。紫苑はとてもイヤそうな顔をしてそれを振り解き、再び何処かへ行ってしまった。

「じゃあウチらもそろそろ学校行きますかー」

「行きますかー」

「じゃあ姉さん元気でね。はいこれ飛行機のチケット。お土産よろしく」

「ガベリアちゃん、ひま姉をよろしくね!」

「ありがとう雛菊ちゃん。薊ちゃん」

「???」

 こうして当人の意思が一度も述べられることなく、ひまわりの上京が決定した。

「なんかよくわかんないけど、まあいっかー」

 ひまわりはとりあえずその場でグーンと伸びをして、何からすればいいかわからないのでとりあえずまた一人ご飯を食べ始めた。 

 茶碗に盛られた白米らからは湯気が伸び、彼女の旅立ちに手を振っているようにも見える。