第2章

第2章

 

② 3月8日 夜

 

眠らない街東京』とはよく言ったもので、太陽が西へと沈みはじめる頃、東京の街は無数のネオンによって再び太陽が昇る。

 五月蠅い虫が深夜のコンビニの蛍光灯に集まってくるように、この街にも灯りを求めて日本中から『ムシ』がやってくる。

 異性を求めてやってくるムシ。夢を追いかけてやってくるムシ。ただ流れに身を任せて辿り着いたムシ。それらを囲う東京は、もはや大きな虫籠といってしまって問題ないだろう。

 ムシを入れる虫籠、魚を入れる水槽、どちらにもオアシスの存在は重要だ。例えば切り株、例えば流木。殺風景のプラスチック四方の中にちょっとした自然を取り入れることで、彼らの生活様式は格段に敷居が上がる。

 この東京という虫カゴの中にもオアシスがいくつか存在する。市民憩いの公園や小川をはじめ、近年では企業の屋上や壁面緑化も頻繁に見受けられる。

 自生していた自然を切り崩し、エゴでもって社会生活のための場を築き上げてきた人間たちは、またエゴでもって自らの文化的生活様式の底上げのため、身の回りに自然を再配置している。改めてみればこれはあまりに滑稽だ。

 そしてここにも一つ、都会のオアシスが闇夜に光る。

 

 梅屋は出された黄金色のハーブティーを楽しみながら夜の東京に更けていた。

 普段通りならば授業を終え、部活を終え、まっすぐ家に帰り、朝に炊いたご飯の残りをスーパーで買った総菜をおかずに食し、明日の授業計画を練りながら、映画を一本、調子がいいときは本も読んだりして就寝する。

 では今日はどうだ。授業を終え、部活を終え、ここまではいつも通りだ。聖木に向かい、謎の物体が草木を燃やし始め、見知らぬ男性と女の子と一緒に蹂躙され、妖精の力を授かり、三人で物体を撃破し、見知らぬ男性の店で、素敵なハーブティーを楽しんでいる…。

 

「改めまして、リンドウアヤメです」

 

 男性は梅屋の向かいに座り、どちらが名字でどちらが名前かわからない氏名を名乗った。閉店後の花屋は橙色の間接照明が二つだけ灯り、二人の気まずい雰囲気を演出した。

「梅屋芍薬と申します!二十八歳、高校教諭です!」

  梅屋は決して気まずくありませんよ!、と言わんばかりに元気よく発話した。

「なんだ、同い年だ」

 対照的にリンドウはクールに返し、優しくハーブティーを啜った。

 彼が自身と同じ年齢と聞いて何かを感じたのか、梅屋も一転クールを装いだした。

「素敵な…、お店ですね」

「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」

 弱冠二十八歳、都心の一等地で花屋を構えて約三年。リンドウには自信とプライドがあった。ここはまさに都会のオアシス、泣く子も黙るフラワーショップ、『FloristLindbergh』である。

 すなわち「素敵なお店」などという称賛はリンドウにとっては聞き飽きた、社交辞令にもならない燃えるゴミのような言葉なのだ。

「梅屋さんも彼らに聖木を見守るように言われて?」

 リンドウが妖精を指して言った。

「はい。あ、リンドウさんってもしかして午前中に聖木の管理をなされてますか?」

「市場に行くついでに軽く」

「通りで!あの完璧な管理は只者じゃないと思ってたんですよ!」

 リンドウがまた当たり前だろうという顔をしながら、梅屋の言葉を謙遜した。

「リンドウ、ボクはロージエ。よろしく!そしてこれが芍薬、こっちは妖精のデルフィン!」

 ロージエは梅屋とリンドウ、そして青い妖精デルフィンを互いに認知させた。

「ちなみにさっきのピンクの妖精はロッタ!だけど…あの子は?」

「先に帰っちゃったよ。名前か何か聞いておけばよかったね」

 話が途切れた。少し小雨が降ってきたか。ちらちら外を見る梅屋。やはりどこか気まずい二人を外の電灯がニヤニヤと見ている気がした。

 

「さっきのバケモノは何よ!?」

 女郎が獲物を待つ繁華街から数駅、まだまだ油断のならない欲の巣窟の隅で静かに煌めく新築アパートの一室。桜田牡丹は深くかぶった帽子を投げ捨て、妖精ロッタに怒鳴った。

「そんなに怒らないでよお私だって知らなかったんだってばあ」

 ロッタが艶やかな声で牡丹を慰める。

「あんなのと戦うなんて聞いてない!」

 二人が出会ったのはロージエが梅屋にコンタクトした五日ほど前。

 「妖精の姿を見ることができるのは植物を愛でるような優しい人間のみ」。大聖木の言葉を頼りにロッタは東京を彷徨った。

 ロッタがついに辿り着いたのは都内某会場にて行われていたアイドルイベント。その会場の丁度中心辺り。やけに花に囲まれている人間を見つけたロッタはしめたという顔をしその女性に近寄った。

「ハーイ!こんにちはあ!」

 しかし返事は帰って来ない。

「ねえこんなに素敵なお花に囲まれたあなたなら私の姿見えるでし…ははあん、今日はこの娘の何かお祝いの日なのねえ」

 ロッタは植物界から派遣された妖精の中でも頭は切れる方だった。地鳴りのような男衆の祝砲からそれを察したロッタは、彼女のハイが鎮まるまで隅っこでチョコンとお昼寝することにした。

 

 …が。ロッタは直感した。寝過ぎた、と。

 慌てて飛び起きて辺りを見渡す。渦巻いていた男衆の熱気はすでにない。

 先ほどの男衆とは異なる腕っぷしの強そうな男たちがせっせと鉄の足場を崩している。その二頭筋。妖精だろうと見惚れるに値する代物だ。

 しばらく目の保養をした後、ロッタは先ほどの女性を探すことにした。

 しかし数分後、ロッタは言葉を失うことになる。

 広間から二つ、重たい扉を越えた先の一室、ごみ箱。大量の花々が無残に廃棄されている。さっきの女が貰っていたやつだ。

 そもそも自分の姿が見えるはずのない女だった。そして何人の人間があの場にいた?何人に自分の姿が見えた?答えはゼロだ。ゼロ。誰一人自分に目線を置かなかった。人間とはそこまで汚れた生き物だったのか。ロッタは人間界に憧れていた自分を猛烈に恥じた。

 怒りと失望が小さなロッタの体内にこみ上がる。彼女はごみ箱の中のへし折られた草花の上でまたふて寝を始めた。そして、ロッタの姿など見えるはずもない係員によって、そのごみ箱の蓋は閉められた。

 

「あのーすみません。あのお花って持って帰ってもいいんですか?」

 

「あー、どうぞ」

「ありがとうございます!」

 これは偶然だったのか。あるいは必然だったのか。閉ざされた新たな世界への蓋は桜田牡丹によって開かれたのだ。

 

「なんでアイドルしながらあんなヤバいのと戦わなきゃいけないわけ!?もういい!お風呂入る!」

「いやん!怒んないでよお」

 

 仕事と学業を両立させる現役女子高生アイドル桜田牡丹の一日は多忙を極める。間違っても恋愛などする時間はない。

 朝から夜まで学校ないし仕事に従事し、その後はレッスンをこなす。そのまま帰ってバタンキューしたいところだが、思春期の女子は乙女のメンテナンスを忘れない。

 そんな牡丹の慌ただしい生活に最近また新たに聖木の護衛という新たな使命が加わった。疲れた体にムチを打ち、夜一時間だけ若木の周りをウロウロしに行く。

 これでいいのかと何度もロッタに尋ねたが、ロッタがそれでいいと言うもんだから正直かったるいし、道中ナンパしてくる男共がめんどうくさかったが、ナンパに関してはそもそも自分の犯罪的可愛さが原因だし、実際妖精という存在が自分にしか見えない、という点もかなり優越感だったので、牡丹は仕方なく聖木とやらを見守ってあげていた。

 しかし今日、そこで彼女を待ち受けていたのは、成人男性二人が謎の物体に蹂躙されている現場だった。妖精というファンタジーからかけ離れたグロテスクな光景だった。

 一般的な十代の女子ならば恐怖で腰を抜かすか、あるいは一目散に逃げるかのどちらかだろうが牡丹は違った。彼女はロッタが何かを助言するよりも早く、物体めがけて近くの小石を投げつけた。

 数秒後、牡丹は初めて人に殴られた。正確には人ではないのだろうが。

 『死ぬほど』という副詞はこれまでの人生で何度も使ってきた。しかし今日以降は頻繁に使えなくなるだろう。何故ならこいつのぶん殴りは本当に『死ぬほど』痛かった。

 二発目を受けたら死ぬ、そう考えた牡丹は咄嗟に死んだふりをした。アスファルトの継ぎ目と継ぎ目から、毎日何千回と踏みつぶされているであろう名も知らぬ雑草が、こっちを見て笑っている気がした。

「さあ立って。戦うわよ」

 そこからは本当に何というかファンタジーだった。先ほどの男性二人がボロボロになりながらも立ち上がっていたので、牡丹も何となく立ち上がった。所謂同調圧力というやつだと彼女は語った。

 一人の男性がこちらを一瞬見てきた。よくみると新しい妖精が二体浮いてる。それにロッタが何やら難しい事を言い出した。なすがまま、妖精の言葉と力に体を任せた牡丹の体は桜色の光に包まれ、体内から力が漲ってくるのを感じた。

 状況を理解するのに必死な牡丹を差し置いて、赤く光った人と青く光った人は物体目掛けて勇んでいった。妖精の力はどうやら物体に効いているようだ。青い人がさっきまでやられた分をやりかえすように物体に次々に攻撃を与える、赤い人は何か躊躇してるように見える。物体は次第に崩れ、最終的に跡形もなくバラバラになった。

 何もしていない牡丹。よく考えれば同じくらい何もしていない赤い人。頑張ってた青い人。二人がこちらを見る。顔を割られてはいけない。牡丹の脳が直感し、彼女は咄嗟に顔を背け、その場をあとにした。

 身体が痣だらけだ。明日までにうまく隠せるだろうか。

 

② 3月10日

 

「もう行くのイヤになっちゃった?」

 仕事を終えた牡丹は聖木へ寄らず直帰した。ロッタは牡丹の肩に座り尋ねた。

「あの日はたまたまあの人たちがいたから助かったけどもし一人の時にあんなバケモノに襲われたら死んじゃうでしょ!」

 牡丹は帰宅ラッシュを少し過ぎた地下鉄の隅っこでこっそり怒鳴った。

「それに、あの人達がいればあの木は平気だと思うんだけど!」

「えーじゃあ今からあの二人に会いに行ってみる?良き出会いが待ってるかもよ?」

「あのね!妖精のあなたにはわからないかも知れないけど、私ね、男と一緒にいるとこ見られたら終わるの!」

 次駅の接近を知らせる車内アナウンスが流れる。牡丹はそそくさと扉の前に移動する。

「ロッタ!」

「ロージエ!」

 銀色の扉が勢いよく開くと、牡丹の眼前には昨日生死を共にした男の内の一人がホームに立っていた。

「あ!もしかして!昨日の!」

 男は妖精同士の反応からすぐに、この顔の半分以上をマスクが覆う女性が昨日の女性であると察した。

 しかし牡丹はそれでも顔を伏せ、したのか否かわからぬほど小さな会釈で地下鉄を降りた。しかし、男は執拗に食い下がって来る。

「今から青い妖精の方に会うんですがご一緒にいかがですか!」

「ホントに!デルフィン!」

 男の言葉にロッタが反応した。

「ねえ牡丹ちゃん。お願い!少しだけ会いに行かない?」

 妖精に性別があるのかはわからないが、ロッタを何となく女性だろう。ロッタのこの要求は妖精としての使命ではなく、恋する乙女のソレだ。

 牡丹は何も言わず一歩後退し車内に留まった。後ろにつっかえていたサラリーマンが牡丹に舌打ちをする。何だアイツ。どうせ帰ったら私でシコるくせに。

 中年サラリーマンも加齢臭も妖精も聖木も知らない二人の男もヤバいバケモノも宿題も仕事ももう全部全部めんどくさい。そして何より最もめんどくさいもの。頼られると断れない自分自身。ホントにめんどくさい。

 

「改めまして、リンドウアヤメです」

 リンドウがハーブティーを二人に差し出し、牡丹にその名を名乗った。

「改めまして、梅屋芍薬です」

 梅屋もクールにそれを名乗った。

 牡丹は名乗るのを躊躇した。彼女は個人情報の大切さを幼いころから事務所に叩きこまれている。こんなどこの馬の骨かわからぬ男二人に名乗るなん

「この娘は私のかわいい牡丹ちゃん!」

「ちょっと!」

 人間界の混み入った事情を知る由もないロッタ。名前が暴かれてしまった牡丹。このまま隠すよりも素性を明かして二人に機密にしてもらった方が得策だと判断した彼女は、顔の大半を覆っていたマスクを外す。

桜田牡丹です」

「牡丹さん!素敵な名前ですね!よろしくお願いします!」

 牡丹は赤面した。梅屋の反応はあまりにも牡丹の想定とかけ離れていた。

 彼女の寸法では、目の前で突然露になった空前絶後超絶怒涛の美少女アイドル桜田牡丹ちゃんのお顔が目の前に登場したならば、この殿方共は飼いならされた犬のようにしっぽをぶるんぶるんと振り回し、涎を垂らし狂喜乱舞する胸の鼓動を年下の女に悟られまいと必死に抑え、冷静を装う姿がなんとも愛おしい。…となるはずだった。

 がしかし、一方は聞いてなかったのかというほど冷静に自ら入れたハーブティーと店内にかかるジャズのトランペットに自惚れている。そしてもう一方はそもそも私のことを全く知らない様子である。こいつらの家にはテレビがねえのか。彼女は怒りのハーブティーを一気に飲み干した。

「さて、お互いの素性がわかったところで知りたいことはちゃんと知っておこう」

 リンドウが怒れる牡丹を全く気にせず場にアクセントを加える。

「人間界にやってきた妖精は、あと何匹いるんだ」

「僕たち含めて五匹が派遣されたよ」

「じゃああと二匹、仲間がいるんだね」

「その残りの二匹の妖精がどこにいるかはわからないの?」

「それがわからないのよ」

「ロージエとロッタが近くにいることは何となく感じたんだ。だけどもう二匹に関しては何も感じない。どっか遠くへ行ったか、あるいわ何かに食べられちゃったか…」

「やめてよ!」

「まあそのうちきっと会えるよ」

 ロージエが話を落とし、一段落させるが、リンドウがまたそのシケモクに火をつける。

「あの機械物体については本当に何も知らないのか?」

「こっちが聞きたいよ!」

「あんなのが人間界に蔓延ってるなんて知ってたら人間界にウキウキで来てねーよ!」

「最悪なのはあの黒い機械の目的が、聖木であった場合ですよね」

 梅屋の言葉は少し難解だったかもしれない。

「最も現実的に解釈するならば、あの黒い機械に指令を出している大元は、植物界という存在をすでに周知していて、さらにあの若木がどんな役割をもって植物界によって植え付けられたかを理解しているかもしれないということですよね。そしてその場合、自分たちがまたあのような黒い機械と戦わなければいけないということでもありますね」

 リンドウは、少し抜けた男だと下に見ていた梅屋が、この考察を一瞬で導き出したことに少々気分を害した。

 噂をすれば何とやら。三匹の妖精の顔が急に青褪める。

「残念なお知らせ。どうやらその悪い仮説は正しいかもしれない」

 三人は何が起きたのか大体を察する。

 梅屋とリンドウはロージエ達が導く方へと駆ける。牡丹も仕方なくそれについていく。めんどくさいけど。

 時計はもうすぐ十二時を回る。先に帰り支度を始めたシンデレラに文句を言いつつ、彼女は白いスニーカーをアスファルトに鳴らした。