第1章

第1章

 

① 3月3日

 

 晩冬の晴天は人々を心地よく包み込んだ。

 いくつもの時代を通り過ぎ、進化を繰り返し続けたこの街だが、今年も相変わらず紅色の梅花を細い枝先に咲かせた。

 今日の東京を歩く人々の肌の色は実に種に富んでいるが、彼らがこの街に溶け込んでいるかと言えば、それを肯定する者は多くはない。

 東京が真の意味で世界都市になる日を、我々の代で拝むのは難しそうだ。

 とはいえ東京においては世界的にみても希有の巨大都市であることは間違いない。しかしこの「東京」、あるいは「TOKYO」が差すのは二十三特別区のみであることが定石だ。

 日本人の中にも、「東京都は二十三区のみで構成されている」と信じている者も少なくない。

 さらに驚くべきことに二十三区民の中にもそのような者がいるのだから、「東京」から漏れた東京人である多摩地区の人間はもはや笑うしかない。

 二十三区と多摩地区、同じ東京を冠する街ではあるがその景色はまるで異なる。

 徳川家が広大な沼地を興すずっと前から狸たちが住まわっていた自然とコンクリートの調和する多摩地区。それに対し、もはや興す土地が毛一本分も残っていない程のアスファルトで覆われた二十三区。

 そのちょうど狭間の線上に古びたアーケード街が伸びているのだが、そこをずっと抜けた先の住宅街、その真ん中で太陽を浴びる、この辺りでは目立って大きな建物がある。それが都立芽実高校である。

 団地に囲まれ聳える草臥れたクリーム色の校舎はとてもキレイとは言えないが、かといって汚いとも形容できない。所謂『どこにでもある』学び舎である。

 どこにでもある学び舎の中では、もちろんどこにでもいる教師が、どこにでもいる生徒達に対し、どこで受けても同じような授業を行っている。もちろんそれを文部科学省が推奨しているのだから仕方がない。

 野心のある若い新米教諭は、まるで法の抜け道をこそこそ探る詐欺師の様に、自身の講義アレンジに注力する。

 が、やがてその熱意は積み上げたキャリアと反比例して薄くか細くなっていてしまう。なぜならばそれが、この社会で成功する賢い生き方だからだ。

 前述の若い新米教員とはいったい何歳までと定義を置くか。そんなものに定義などもちろん存在しないのだが、例えば二十八歳といえば、そのどちらともとれる絶妙なキャリアと言えるのではなかろうか。

 こなれた授業運びや生徒との接し方はもはや新卒のそれではなく、初々しさも見受けられない。

 だが一方で、二十代としての野心も隠しきれておらず、既存教育に抗う姿はベテランのそれでは到底ない。

 当高校生物教諭の梅屋芍薬においても、それについては例に漏れない。

 

 クリーム色の校舎は空模様を素直に反射する。曇天下でそれは仄暗い鼠色に沈み、同様に晴天下では青空中の雲のように白く輝き、天との境目をなくす。

 今日の校舎は紅色の梅花を乱反射させ、仄かなピンク色に染まった。

 校舎そのものが何かに心をトキメかせ、頬を赤らめている青春の学生のようにも見える。

 

 人々が降雨の忌しさを忘れてしまうほど、近頃はごきげんなお天気が続いている。新シーズンの到来を待つ校庭の野球部の声量も次第に大きなっていく。

「つぼみが出ましたね」

 職員室の窓際。ブリキバケツに定植した植物を眺める梅屋芍薬に桃井紅葉先生が話しかけた。職員室に一際甘い香りを垂れ流す紅葉先生は声も大概甘ったるい。

 「梅屋が植物をこよなく愛でている」というのは、学校内ではもちろん、周囲の住民にとっても周知のものである。

 毎年春先になれば、彼にガーデニング指南を受けにくる主婦衆により当校裏門前は大変賑わう。この辺りの初春の風物詩である。

 「自分で育てたお花たちに話しかけています」

 テレビの奥で可愛らしい女性アイドルがそう謳ってたのならまだしも、成人男性がそれを言ったのならば只事では済まされない。精神科か脳外科、いずれにせよ何らかの処方を勧める必要があるだろう。

 植物への愛の言霊に決して返事が返ってくることはない。植物と会話する。植物を愛でる者であれば、あるいはそれを望むかもしれないが。

 しかし梅屋の場合は違う。長年植物生理学に従事してきた彼にとってみれば、そんなことは絶対にあってはならない。もしそんなことが起きれば人類のこれまでの研究が全て否定されたことになる。絶対にあってはならないのだ。

 

「君は植物を愛しているんだね。話しかけたりしちゃって」

 

 決して聞こえてきてはいけないそれは、耳を疑う余地もないほど鮮明に彼の中に届いた。紅葉先生の声ではない。聞いたことのない声色。だがしかし、実に心地いい。ただ少々棘がある。顔が見えなくとも、その声の震えからその主が自分を小馬鹿にしていることはわかる。

「…どなた様ですか?」

「ボクはロージエ」

「ロージエさんはどこから話しかけてるんですか?」

「ここさ」

 植物が喋る、そんな最悪の事態は避けることができた。しかしサラリーマンがラーメン屋の暖簾を掬うように、葉と葉の間から現れたこの小さな生命体についてはまだ説明がついていない。

「…あなたがロージエさん?」

 ロージエと名乗る小さな生命体、いや、生命体らしき物体は仄かにバラの香りを漂わせコクリと頷いた。

「ロージエさんは…何ですか?」

「ボクは植物界から来た妖精、ロージエ。君の力を貸してほしいんだ」

 梅屋が唖然としているとロージエは続けて語りだした。

「今、植物界が絶滅の危機に瀕している。近年の人間たちによる大気汚染で、植物界では今、凶悪な疫病が流行っているんだ」

 植物界とは。妖精とは。梅屋はとにかくそれらを無理矢理肯定して、聞くことに徹した。

「だから植物界の偉い人たちが話し合って決めたんだ。空気浄化のためのこっちに大聖木様の差し木を植え付けるって。だけれども、ただ植えたところではどうせまたすぐに枯れてしまうだろうと植物界の偉い人たちはまたまた考えた。そんで、ボクを含めた何匹かの妖精がこっちにきて、聖木を見守ってくれる人間を探しに来たんだ」

あらゆる非科学的な概念さえ受け入れてしまえば、ロージエの話はもはや筋が通っているようにさえ思える。

 確かに今日の人間による環境破壊は極めて顕著だと聞く。梅屋はこの時、一人の人間として自分たちの暮らしが植物界に多大なる迷惑を講じてしまっていることを猛烈に恥じた。同時に沸いた使命感は彼をすぐに突き動かすことになる。

「自分に聖木を見守らせてください!」

「話が早いね!じゃあさっそく聖木の元へ案内するよ!」

こうして彼は、一歩、とても大きな一歩を前に進めた。

 

② 3月8日

 

 大都会には国の経済を支えるビル群が並び立ち、それに負けじと街路樹たちは整列し、上空のビルを見上げている。梅屋はというとその傍でロージエが聖木と呼ぶ一本の若木を見つめていた。

 梅屋が聖木に導かれてから今日で五日目。今日も梅屋は授業と顧問を務める剣道部の稽古をさっさと済ませ、都内公園の人工林に植えられた若木のもとへと訪れた。

 あの日以来、梅屋は毎日若木を訪れてはその成長を見守った。誰とも顔を合わせてはいないが、この若木は明らかに人の管理が施されている。ロージエの言っていた通り、自分以外にも誰か、妖精に導かれた人がいるようだ。

 彼はいつも夕下がり頃にここに到着するが、若木はおそらく午前中のうちに見事な手入れを施されている。その丁寧さから、かなりの手練れによる仕事だと梅屋は睨んでいた。

 従って梅屋がここにきてやることと言えばロージエとの世間話で異世界交流か、眠くなるまで若木を見守っていることくらいだった。

 腰丈ほどのその若木は梅屋の知識をもってしても未知の種であった。もちろん研究対象として興味をもったが、彼の正義感がそうさせたのか、梅屋は余計な詮索はよした。

「大木になるまではどのくらいかかるの?」

「うーん。…あれが咲くころかな!」

 ロージエが示した先。クチナシの葉が木漏れ日を創って風に靡いている。

「じゃああと四か月くらいだね」

 梅屋はもうそのあまりにも驚異的な成長速度くらいでは驚かなくなっていた。

 自身への嘲笑、素性の知らない同志への賞賛。それらを甘い缶コーヒーのおつまみにしつつ、気付けば空には月が光っている。

 お腹が鳴る前にコンクリートの淵から腰を上げる。飲み干した空き缶をゴミ箱に捨て、彼の足が帰路へと向く。その時。冷えたお尻が心地の悪い機械音を感じ取る。

 何か来る。工事音とは違う不気味な異音。梅屋は音の方へと歩いてみた。

 二、三分歩いた先、人気の少ない公園の奥には人型を模した黒い影が見えた。しかし人ではない。

 不気味な黒い物体は、数歩の足音を鳴らした後、雑木林の前で立ち止まった。

 何やら物体の腕部の周りが熱で歪んでいくように見える。いったい何が起きる。次の瞬間、あろことかその物体は腕部から邪悪な火炎を放射し木々を焼きだしたのだ。

 梅屋は訳も分からず怒った。その謎の物体めがけて一目散に走って詰め寄った。頭に血が上っていた。しかしその中でどこか冷静に足元の違和感に気付いた。足音が多い。梅屋がふと視野を広げる。すると彼の右方から同様に物体に駆け寄る黒いコートの男性を瞳が捉えた。

 黒というよりもネイビー。よく見るとかっちりとした高そうなコートを羽織っている。その男性はすぐに攻撃態勢に入り、物体めがけて飛び蹴りをかました。それを見た梅屋の心臓が一拍、強烈な脈を撃ち、全身の筋肉を一斉に緊張状態にさせる。

 男性のネイビーコートに映えるブラウンの革靴が物体の胴体に勢いよくぶつかる。

 しかし、ペチンという情けない音だけを残し彼は都会の固く冷たいアスファルトに落とされた。物体はまるで微動だにしていない。

 火炎放射器を搭載した物体の腕部がアスファルトの男性の方へと向けられる。

 梅屋はすぐにえそれを阻止すべく放射器を掴んだ。しかし熱さを極めたバイクの排気筒のごとくタマムシ色に輝くそれはとても一秒と触ってはいられるものではない。

 梅屋が声にならない叫びとともにぱっと離した右手の皮膚を確認した刹那、勢いのついた物体のもう一方の腕部が、梅屋の身体を考えられない程の距離まで殴り飛ばした。

 

 意識がまだあったことは彼にとっては不運だった。

 はっきりした意識の中で梅屋の目が朧気に捉えたのは、どういうわけか放射をやめ、図太く黒い腕部で男性を痛めつける物体の姿だった。梅屋はあまりにも残酷なその光景に顔を伏せた。しかし尚も鈍い殴打音は、閉ざした視界を貫き彼の耳に届いてくる。

 カツン。殴打音の中に何か軽い音が介入した。直後、物体による殴打音が止む。梅屋は恐る恐る男性の方に目をやった。

 男性の小さくなった体が幽かに震えているのが見える。人間の死の瞬間に立ち会ってしまうかもしれないという恐怖が彼を襲う。

 カツン。また軽快な音が鳴った。男性から目を逸らせる理由を得た梅屋はすぐに辺りを見回す。少し遠く。少女が勇ましい挑発とともに、辺りの石ころを物体めがけて投げつけている。危険だ。そんなことはやめて早く逃げるべきだ。しかし声は出ない。

 物体は男性への痛めつけをやめ、よく見れば少女と呼ぶには少し大きい女学生の方へと静かに振り向いた。

 女学生はこちらを向いた物体に一瞬ビビりながらも、謎の自信を見せつけていた。

 あんなごつい物体がこんなに離れた自分に追いつける訳がない。脚に自信があった彼女はそう踏んでいた。あれを十分に引き付けた後、一目散に逃げる。彼女の机上では既に物体を攻略済みだった。

「まだいける…。さあ今のうちにお二人さんとっととにげ

 ジュゥオン!

 激しい蒸気音が数十メートル離れた彼女のもとへと物体を一瞬で運び飛ばした。

「!?」

 彼女の自己は恐怖に支配され、発声すらも許さなかった。

 それはもはや傍観者とである梅屋も同じだった。五感はあるのに身体が動かない。

 両親に手厚く、深い愛でもって育まれたであろう彼女の体が、黒く血の通わない物体の餌食となっていく。ただどうしようもなく、見るわけでも見ないわけでもなく視界に入れた。

 物体は一仕事を終えたのち、ため息を吐くように一拍の蒸気を吐き捨てて、今度は梅屋の方へと機械音を犇めかせた。

 ああ、死ぬのか。天国で待つ母親に何と説明すればいいか。話したところでこの状況を果たして理解してくれるだろうか。物体の嫌な機械音が目の前で止まり、梅屋の水晶体はもう、物体の黒くて冷たい脚部しか見ることを許されなかった。

 それはもはや目を瞑った時と同じ光景であり、あるいは死後とも同じかもしれない。梅屋は決まらぬ覚悟を決めた。しかし、あの世はまだ梅屋らを受け入れてはくれなかった。

 

「目を開けて!」

 

 その声で自分がいつのまにか目を閉じていたことを知った梅屋は瞼を上げた。目に入ったロージエの姿はとても小さいのだが、高層ビルよりも大きく感じた。

 勇気をもらった梅屋が恐る恐る目線をあげる。すると。

「!」

 物体はギギギと軋みながら茨のような何かでその動きを制止されていた。

「おっと礼を言うのはまだ早いよ!こ いつを倒してからだ!この茨はすぐに解ける!アルプローラの…妖精の力を少しだけ君たちに貸すから!それでこいつをぶっ飛ばすんだ!」

 ロージエと似た青い妖精が語気を強めて言った。

 梅屋は立ち上がりふと男性の方へと目線をやる。あちらも全く同じタイミングでこちらを見た。立っているのがやっとであろう男性から、何か強い覇気を感じた。

 その覇気に共鳴したのか、奥で倒れていた少女もフルフルと立ち上がる。同刻、物体を縛っていた茨が解け、三名に襲い掛かる。

 お互いがどういう縁でここに立ち、どういう訳でこの謎の物体に打ちのめされているのか、もはや理解などしてる場合ではない。

 ロージエと青い妖精、さらに桜色の妖精が三名に自らの光を降り注ぎ、彼らの身体を淡い光で包みこんだ。

 この瞬間から、彼らの永遠に続く一年間が始まった。