第17章

第17章

 

① 7月30日

 

 虚無である。紛うことなき。

 

 

「遠足いーなーぼたちゃん遠足いーなー」

 何も知らないバカひまわりの見送りに腹を立てながら、牡丹は地獄行のバスが待つ地上へとエレベーターで下った。

 

 七月三十日から二日間。芽実高校では二年次恒例の遠足が開催される。

 目的地が隔年で山と海のどちらかとなるのだが、今年の彼らは『アタリ』年。海である。

 ただ、海がアタリというのもただ単に山が大ハズレなだけであって、海も十二分にハズレである。

 初代学校長により設定されたこの遠足。都内にある校舎から海もしくは山に設定された宿舎までの約五十キロメートルを約十二時間かけて、ただ歩くだけ、文字通り遠くまでただ歩くだけ、たったそれだけのイベントである。

 言わずもがな、遠足という名を冠しているのにもかかわらず当行事は非常に人気がない。

「友人、あるいは教職員と生徒の絆を深めるため」。初代校長がこの行事の設定した際に放った言葉である。しかし彼がこの行事により生徒及び教職員から縁を切られたのは言うまでもない。

 

 

『教職員から連絡があり、牡丹がどうしても遠足に参加したがっているとのことでしたので、その日の牡丹の仕事は全てオフにしときました。遠足楽しんでね!(^^)!』

 昨夜マネージャーから牡丹の携帯に届いたメールである。牡丹はケータイを壁に投げつけ深夜にもかかわらず怒りの雄叫びを上げた。

 ふざけるな。誰の嫌がらせだ。梅屋か。あの朝顔包茎。殺す。殺さなければならない。

 遠足の前日は寝れない、とはよく言ったもので、牡丹はこの日ほとんど睡眠に落ちることが敵わなかった。おそらく皆の事由とは異なるが。

 

 遠足当日早朝。バスが全生徒及び教職員らの家を回る。

 今朝も蒸し風呂のように熱く、水中のような驚異的な湿度。まるで中年男性の脇の下にいるかのような不快感。 そんな中、紅葉先生はニット帽とダウンコートを身に着けマグマのように煮えたぎる担々麵を食べていた。

 『三十七度五分』。これは生徒及び教職員が遠足を欠席するために越えなければならないボーダーラインである。

 当行事は夏休み中にも関わらず対象生徒教職員に強制参加が義務付けられている。学校が寄越したバスが家まで迎えに来るので無断欠席も許されない。

 しかし、その場で測った体温が上記の数値を超えていた場合に限り、その者は晴れて欠席の権利を得れる。

 彼女はそれを超える為、親の仇のように地球上の熱を集めていた。

 生徒たちも同様にあらゆる手段を使ってこの行事からの逃避を目論む。ある者は醤油を一気に飲み干し、またある者は自らの血を抜き貧血で倒れて見せた。さらに自らの腕骨を粉砕するという強者までも現れ、もはや彼らのトレンドは『どう不参加になるか』ではなく、『不参加になるためにどれだけ体を張ったか』に重きをおくようになった。

 牡丹にそれをする度胸もなく、彼女は観念しバスに乗り込む。

 車内最後部座席には『パワハラ反対!』と書かれたタスキを肩にかけ、頭には『遠足玉砕』と記されたハチマキを巻く学生運動スタイルの紅葉先生が腕を組み座っている。

「あなたの分もあるわよ」

 牡丹は紅葉先生より遠足反対セットを受け取り紅葉先生の横に座った。

 そこまですることか?意外にも車内での牡丹は少しにこやかだった。

 

 バスは生徒のみを校庭に下し、教職員らを遠足道中の各チェックポイントに送る為また世話しなく走り出す。

 生徒たちに逃亡予防のGPSつきスタンプカードが配られ、待ち構えていた校長がいつもより短めに励ましのお言葉をお届けし、空砲の音で遠足がスタートした。

 ここまですることか?牡丹はスタンプカードを天に透かしまた呆れて笑んだ。

 当遠足は基本的に男子三、女子三の六人班を編成し行動を共にする。

 どうせ仕事を入れてやろうと企んでいた牡丹は真面目に班編成に参加せず、スミレにそれを全て一任していた。

 さて蓋を開けてみると、スミレ、スミレの友達のアズサとその彼氏の横山くん。そして…名前も言いたくないアホ二匹。何故このスーパーエレガンスチームにドブネズミ共がいるのか。

 十二時間こいつらと同じ空気を吸って自分まで不細工になってしまわないだろうか。牡丹は本気で心配した。海まであと十一時間半。海はまだまだ遠い。

 

 

 牡丹らが海へと歩を必死に進めているほぼ同刻、都内某所横断歩道をのしのしと渡る一体の植物体がいた。

 赤信号にも関わらず横断歩道を構わず進む植物体。

 キィィン!

 音を立て、三台の車が一斉に急ブレーキで止まった。

 怒る場面だ。どんなに温厚な人でもこれは怒るべき場面。ただしそれは相手が人間ならばだ。三台の車はクラクションを鳴らさず、その植物体が対岸の歩道に辿り着くのを待った。

 何故こんなところに植物が。そんなことよりもなんというタッパのデカさだ。肩にはまるで丸太のように太い腕がぶら下がっている。あれを振り下ろされればこんな車などペシャンコ。

 相手は植物。神経を逆撫ですれば何をされるかわからない。あくまで穏便に。命を守ろう。三者は体を屈め、ハンドルの上から目だけを出して状況を覗いた。

 この植物体に『違反』を注意できる者などこの場に一人もいない。ある一人の少女を除いて。

 

「だめだよお兄さん。赤は止まれだよ!」

 

 植物体は少女に指し示された信号機を見た。そして周りを見渡す。それが青く光るときには人々が歩き、車が停まる。逆にそれが赤く灯るときには人々が停まり、車が通過する…。

「そうだったのか。悪い事をした。ありがとう。教えてくれて」

「わかんないことは何でも聞いてね!」

「ありがとう。助かるよ」

 そう言うと植物体は自らの違反により急停車させた運転手らに頭を垂らし、またのしのしと歩き始めた。車は日中にも関わらず赤いテールランプを灯もして走っていった。

「お兄さん変な顔だね!外人さんなの?お名前は?」

「…サンd

 植物体が自らの名を告げようとした時、少女の母親らしき女性が少女を抱えて逃げていった。

「ソニア」

 植物体は宙に自身の名を落としたまま、また歩みだした。

 皆が物珍しそうに自分を見る。植物体は介せずのしのしと進む。警察の発砲を受ける日もあるし今日は比較的穏やかだ。

 植物体もといサンダーソニアが住宅地の市民図書館に行きつく。

 ガラスの自動ドアが開くのを律儀に待つ。体長二メートル近い巨大植物体を司書達は優しく出迎えた。

 彼がこの図書館に初めてやってきたのは、もう半月も前の事。あの時は皆、植物の襲来に我を忘れて逃げ惑い叫び狂った。

 しかしこの植物体は人を襲うようなことを一切せず、綺麗に並べられた数万冊の本にただただ魅了されていた。

 やがてサンダーソニアは一冊の本を手に取り、近くの長机に腰を掛け本を開く。その本は魚類の図鑑だったという。

 子供のように目をキラキラさせて図鑑を眺める巨体はもはやその場の人間達に恐怖を与えず、むしろどこか愛おしくすらあった。

 数時間後、サンダーソニアは図鑑を閉じて席を立ち、辺りをキョロキョロと見渡した。

 明らかに何かを探しているようだった。出来るなら助けてやりたい。きっと彼は危害を加えてこない。しかし、体を支配する恐怖は彼女らの足をその場に打ち付けた。

 サンダーソニアは辺りを歩き、遂に自ら一人の司書に話しかけた。

「人間の文字を学べる本はあるだろうか」

 サンダーソニアが腰を抜かした司書に手を差し伸べ、彼女の体を起こす。司書は震えながらも彼を学参コーナーへと誘った。

「ここここれがとても簡単な本です…」

 司書は小学校低学年が使うような読み書きの本を棚から出しサンダーソニアに渡した。

「ありがとう」

「いいいいいいいえ」

 サンダーソニアは本を受け取ると、また先ほどの席に戻りさっそくその本を読み始めた。

 司書は確信した。やはりこの植物は人を殺すような植物ではない。しかし、あの威圧感。頭ではわかっていても体がまだ怯えている。司書はその場にへたり込んだ。

 それからというもの、サンダーソニアはほとんど毎日この図書館に訪れてきては読み書きの勉強をした。また司書らも徐々に彼に慣れ、彼に優しく手解きをした。

 学習能力こそ高くはなかったが熱意は大いに伝わってきた。時には子供たちが、時にはお年寄りが彼の識字をサポートした。そして不思議なことに誰も彼のことを警察等に通報しなかった。

 今日もサンダーソニアは定位置である窓際の長机に腰を掛け、小学生の漢字ドリルを始める。

 これは人間と植物による戦争が繰り広げられているのと同じ時代の話である。

 

 

 二時間ほど歩いただろうか。アズサちゃんと横山君が手をつないで歩いている。癪に障るがまあ青春の一ページだ。大目に見よう。ただその後ろでスミレと有田がさっきからずっとくっちゃべってる。これは許されない。何故ならそれにより、この超絶美少女牡丹ちゃんに肥溜めから生まれたイガグリが自然と近づいてくることになるからだ。

 つーか何でこのイガグリは普通の男じゃ近付くことさえも許されないこの 世界のスーパーアイドル牡丹ちゃんが横にいるってのに一言も話しかけてこないのだ。後方ではスケベ男子共が貴様のポジションを今か今かと下心とカウパーを垂れ流しながら狙っておるぞ。

 あと何時間あるのだ。…仕方がない。後ろの青少年たちをからかって暇つぶしとしよう。

 牡丹は後方の男子生徒達に見えるようにわざとらしく成田に話しかけた。まあ成田に聞きたいこともあったし。

「…アンタら二人と横山君って仲いいの」

「いや、別に」

「じゃあ何で爽やかイケメンの横山君とアンタらゴミムシが同じ班なのよ」

「…お前知らないの?」

「何を?」

「まじか。森山と有田付き合ってんだけど」

 牡丹は絶句した。学内でも(私には到底及ばないが)トップクラスのスミレがウンコといつのまにか結ばれていただなんて。スミレよ。いったいどうして。悪魔に魂を売ってしまったのだ。ああ。スミレの(私に及ばないとしても)そこそこ美しいカラダが汚されていく。

 牡丹は絵に描いたように嘆いた。美少女牡丹ちゃんの貴重な嘆き声を生で聞けたというのに何故かドン引いている成田に腹がを立てる。

「何であんたみたいなオタクが引いてんのよ。信じられないんだけど!」

「お前テレビと全然違うな」

「あんたがギャラくれればいくらでも猫被ってやるわよ」

「後ろの連中がこのお前を見たら落ち込むぞ」

「うるさー!だいたいね、もうここまで私と五分も喋れたんだからお金払いなさいよ!お金!世間の男連中は私と十秒話すのに千円払ってんのよ!不公平じゃない!ほら三万!払いなさい!」

「お前は闇金か!」

「はいまた十秒!三万千円!」

 牡丹の視界にふと前方の四名が入った。アツアツ二組はそこそこヒートアップしたこちらを全く気に掛けずイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャ歩いている。底知れない敗北感と虚無感。

 牡丹はなんとなく成田の頭を引っ叩いた。飛び散る汗。悶絶する成田。直に頭皮脂を触ってしまいまた嘆く牡丹。海はまだまだ見えない。

 

 一方梅屋と紅葉先生は二十キロ地点の県境あたりで生徒たちの通過を待っていた。

 教職員らも最後尾の生徒たちの通過を確認した後に、生徒らとともにゴール地点まで歩いて向かわねばならない。紅葉は梅屋にこのイカれたシステムの愚痴を延々と垂れた。

 最後尾の生徒たちが通過するまで長く見積もってもあと五時間。そのあとゴールまで歩く…。まあ梅屋先生なら私のお色気ボンバーでイチコロなので、その時はタクシーでも捕まえて…。教職員らの海もまだまだ遠そうだ。

 

 遠足開始から四時間。ようやく先頭の生徒たちが梅屋らの元を通過した。

 梅屋は彼らの持つスタンプ帳に通過印を押印し、励ましの言葉とともに送り出す。

 それからもぞろぞろと通過していく生徒達。今朝までのイヤイヤムードから一変、皆なんだかんだ楽しそうだ。毎年のことではあるが。始まってしまえば全て良き思い出に代わる。青春の特権である。

 約半数が梅屋の元を通過し、梅屋がそろそろお昼にしますかと紅葉先生に尋ねる。紅葉がそれを了承し、支給された日の丸弁当のふたを開ける。ムワッと溜まった蒸気が二人の顔にかかり、彼らは白米の匂いと不快感を同時に感じた。

 梅屋がハムハムとおかずを何口か頬張る。次に彼が右隅のミートボールをつまもうとしたその時、割り箸は彼の手元をするりと抜け、片割れは鼠色の遊歩道の上に落ちていってしまった。

 紅葉はこのチャンスをものにしなければならなかった。言ってもクソ真面目な梅屋芍薬。普通にタクシーを切り出せばそれは否定されるだろう。積まねば。ポイントを。撒かねば餌を。

 紅葉は辺りに誰もいないのを見計らう。シメたという顔を奥底に隠し、あらあらと息をつきながら自らの箸で梅屋のミートボールを摘まみ、彼の口に入れた。

 白昼堂々何とも言えぬ空気感を演出する紅葉。…どうやらその気にさせてしまったか?これだから童貞は困る。紅葉はウフフと笑い自身の弁当に戻る。

 もう一個いけるか。やりすぎか。いやいけるな。次でトドメだ。楽勝。紅葉が自分のミートボールを摘まみ、梅屋の口に持っていく。

「!?」

 紅葉の箸が止まる。紅葉は背後に気味の悪い寒気を感じ取る。

 紅葉が恐る恐る背後を振り返るとそこには、いつのまにか二人を覗く成田と牡丹の姿があった。

「あーあ見っかっちったじゃない。あんたの鼻息が荒いから」

「お前の下品な香水のせいだろ」

 ピシャン。牡丹がまた成田の頭を引っ叩く。成田がまた悶絶する。

「いつからいたの?」

 紅葉が問う。

「…なーにが遠足反対よ。めちゃくちゃ楽しんでんじゃないクソボケ!」

 牡丹は地面に転がった今にも死にそうなセミを蹴り飛ばし、GPSつきスタンプカードを紅葉に投げつけスタンプも貰わずに行ってしまった。成田も自分のカードにスタンプを押しそれに続く。

 梅屋がまた見られてはまずいものを見られてはまずいヤツらに見られてしまったと頭を抱える。それを見てオンドレよりも問題はこっちじゃボケと紅葉が頭に血を上らせる。

 まもなく新たな生徒達がやってきた。こいつらは桜田の取り巻きか。お前らもいつまでも幻想に浸ってないでそのチンカスだらけのポコチン洗ってとっとと現実と向き合え。紅葉が笑顔でスタンプを押し送り出す。

 よかった。紅葉先生は怒っていないようだ。牡丹の態度は改めさせなければいけないな。梅屋は沢庵に残った一本の箸を刺し、口に運んだ。青空がとても綺麗だ。

 

 

 

 

…虚無!余りにも虚無!信じがたい平穏なる日々!

 先月までの激動はどうした。命を懸けたのではなかったか。何をこんなにのほほんとしている。

 今自衛隊や米軍は『自分達が連れてきた』植物と戦っている。多くの命が今この瞬間に消えている。それなのに自分は何をしているんだ。ミートボールアーンなんかされている場合か。

 いや違う。わかっている。違和感はずっと前から気付いている。問題はそこじゃない。今この生身で戦地にいってもどうにもならぬのだ。どうにもならない。ただ死ぬだけ。

 だから自問自答こそ無意味。毎日。毎朝。毎昼。毎晩。きっと明日も考えるだろう。無駄だ。無意味。さあ。紅葉先生との時間をもう一度楽しむことにしよう。その方が遥かに有益だ。うむ。

 

 青空が綺麗だ。紅葉先生も美しい。梅屋は再び夢の時間に戻った。海はまだ遠い。