第16章

第16章  

 

① 7月7日

 

「夏焼さん、蛇黒が脱獄しました」

「こんなクソったれな時にあのクソったれは」

 

 長く続いた梅雨は湿気と一つの戦争を残しどこかへ消えていった。

 人類と植物の戦いは熾烈を極めている。爆撃をものともしない植物要塞。戦車をも斬り裂く刀。丸腰同然の植物達に軍は苦戦を強いられている。

 警察は軍事組織ではない。すなわち戦争が始まれば出る幕はない。

 ある者は虹橋爆破の黒幕を血眼で調査し、またある者はいつも通り路上でのネズミ捕りに勤しんだ。 

 謎の物体は未だ謎のままである。しかし実在した。

 ヒーローに関しては目視に及ばなかった。しかしそれらが『実在すれば』、それはおそらく植物界の刺客であったのだろう。そして何より。その筋で考察を広げると、謎の物体が我々人類の味方だったと考えるのが最も納まりが良い。

 謎の物体とヒーローをパフォーマンス集団と結論付けた偉いさん方は今頃何をしているだろうか。どうせ大した責任も取らず…。やめよう。考えるだけ時間の無駄だ。夏焼はそれを止した。夏焼のやるべき職務はたったの一つ。謎の物体の大元を探る事。

 先日、謎の物体が生成されていたであろう廃工場が都内、埼玉、千葉、神奈川各地で発見された。しかし、それらの調査はこれまで同様、霞を掴むような無益な結果しか生み出さなかった。

 手も足も出ないとはまさにこのこと。夏焼のタバコの消費量が日に日に増していく。

 そんな中。彼の元に訪れた「蛇黒脱走」の報。

 蛇黒正義。追跡中の犯人を不当に銃殺し投獄された夏焼の元同期の警察官である。服役中の刑務所内でさらに複数の凶悪犯罪者を殺害していったサイコキラーである。

 彼の刑務所内での犯行が暴かれたのは彼が十二人目の囚人を殺害した時だったのだが、何故それほどまでに彼の犯行は周りに気付かれなかったのだろうか。理由は二つある。

 一、彼が犯行当時独房に収監されていたということ。二、殺害された囚人の遺体がピストルによって惨殺されていたこと。

 硝煙反応より彼の犯行が明らかになったのだが、彼がどのように独房から抜け出し、どのようにピストルを塀内で手に入れたのかは未だに不明である。もちろん脱獄の方法も。

 …妙に波長の合う男だった。親友に成り得る存在だった。正義感の強い男だった。しかし彼の正義感は余りにも強すぎた。彼は全てを裁こうとした。

 警察官なら誰しも心の中にそれぞれの蛇黒を飼っている。娘を殺された親、恋人を犯された男。彼らの姿を見れば、犯罪者の懲役はあまりにも短い。

 殺してやりたい。刑務所から引っ張り出し遺族の前に差し出したい。正直許されるなら今すぐそうしてやりたい。皆そう思っているはずだ。蛇黒はただ、それを実行してしまっただけ。

 奴はこれから凶悪犯を殺して周るのか。刑期を終え、のうのうと暮らしている元受刑者達を。考え得る最も残虐な方法で。

 蛇黒は常々語っていた。一人でも殺したら死刑にすべきと。人を裁くのは法であるが、法を創ったの人間だ。結局は人間が人間を裁いている。神などいない。彼は世界の新たな法となろうとしている。

 夏焼は彼の暴論に反論できなかったことを未だに覚えている。そして彼は今もそれに対抗する弁論を持ち合わせていない。

 一人でも殺したら死刑にすべき。蛇黒を射殺する準備はいつでも出来ている。あとはそれが、自分の正義に沿った行動かどうか。

 雨雲がまたやってきて地上に雨を落とす。

 七夕の空に星は一つも見えない。織姫と彦星は何故こんな時期に会う約束をしたのだろうか。笹の枝に括りつけられた短冊。もう滲んで読めないだろう。

 指に挟んだタバコ。一度も吸われることなく、湿気て消えた。

 

② 7月17日

 

 夏。灼熱のアスファルト。浅海はキャップを深く被り、額から滝のような汗を流しながらとあるマンションの前に張り込んでいた。そしてその彼女をまた、夏焼も張っていた。

 このマンションにあの女が言っていた『もんのすごーい情報』があるのか。夏焼は涼しい車内から、浅海を見張った。

 マンションの前に電気事業者の車が停まる。数分後、浅海は検診を終えマンションのエントランスから出てきた電気作業員に徐に近付いた。

 浅海は作業員と二、三言話した後、何かメモを取る。そしてそそくさと日陰に戻り、再び張り込みを始める。

 浅海はこれまでに、ガス業者、新聞業者、デリバリー配達員らとも同様のやりとりを交わしてはメモを取っている。警察としてまずはあいつを職質するべきかもしれない。

 数時間後、マンションにまた別の電気業者が訪れる。浅海は例によって作業員の作業が終わったタイミングで近付き、会話を始める。

 すると浅海は小さく会釈し、マンションの中に入っていく。

「お」

 夏焼も車を飛び出し、作業員に警察手帳を見せ尋ねる。

「今の女性と何を話されました?」

「え、ああ。何か部屋の電気使用量を聞かれました。警察の人だって言うもんだから」

「部屋番号と名前は!」

「え、えーっと903号室の薬師さんです」

「ご協力ありがとうございます」

 夏焼はお礼半分にマンションのエントランスを潜った。マンションに入構するやいなや、夏焼はエレベーターの『▲』ボタンを連打する。しかし浅海が使ったか、それは一向に降りてこない。階段の方が早い。風通しが悪く蒸し風呂のようなマンションの階段を革靴で駆け上る。

 九階に辿り着いた夏焼は息を切らしながら左右を見回す。左奥、部屋のドアポストを開けて中を覗く浅海の姿。

「何やってんだ」

「! いやん!見逃しちくりー…」

 浅海はキャップの鍔を目いっぱい深く下げ夏焼に願い乞うた。

「…この部屋に何がある?」

「さ、さあ?」

 ピンポーン。夏焼が部屋のインターフォンを押す。

「何やってるんですか!」

「こそこそしないで入ればいいだろう」

「中にはきっと誰もいませんよ!」

「じゃあなおさらだ」

 夏焼は903号室のドアノブを引いた。扉にはもちろん鍵が掛っている。夏焼は小さな舌打ちをした後、腰からピストルを取り出し郵便受けに銃口を突っ込む。

 ズキューン!

「!?」

 唖然とする浅海。夏焼は発砲により『受け棚』が弾け飛んだ郵便受けに腕を入れ、また銃口で鍵を中から回す。

「やってることヤクザじゃないですか」

「FBIも似たようなもんだろ」

「あ、あはは」 

 夏焼は腕を引っこ抜き改めてドアノブを思いきり開いた。

「う…」

 ドアを開けた瞬間、夏の熱気と湿気に蒸されたありとあらゆる残飯の強烈な腐敗臭が二人を襲う。

 鼻と口を覆い、二人が土足で部屋に入る。

「すごい…」

 部屋中に張り巡らされた配線とその先に繋がれたいくつものコンピューター。ディスプレイ。それぞれがそれぞれ唸りをあげている。

 浅海は思わず空気を吸ってしまう。咳き込む浅海。散乱したゴミの上を夏焼が渡り窓を開ける。少しの風が通り、夏焼が口を開く。

「浅海遥。説明してくれ」

 浅海はその解答よりも、ベランダに出ることを優先した。外気を十分に深呼吸した後、彼女は部屋に戻り夏焼に一枚の写真を見せる。

「植物が初めに現れた日に撮った写真です。誰だかわかりますか?」

「いや」

「元工学研究者の薬師教授です。以前人口知能の件で大バッシングを浴びた。彼は騒動後すぐに研究所を退所しています。丁度謎の物体とヒーローの噂が出始めた頃と同じ頃です」 

 夏焼は先ほどの電気業者にその名を聴取したのを思い出した。浅海はおそらくこの部屋の電気、水道、ガス等の使用量を聞き取り、中に薬師がいるかどうかを探っていたのだろう。まあしかしこれだけのコンピューターが動き続けているのであれば、その証明にはなり得ない気もするが。

「で、薬師が?」

「薬師は長年災害予知の研究に従事していました。これは私が以前取材したことがあるので間違いありません。植物界があの日、あの場所に攻めてくる。それって立派な災害予期ですよね?しかもその場に薬師の姿もあった」

「つまり謎の物体の黒幕は薬師であると」

「そう考えて数日このマンションを張っていました。いくつかのデリバリー業者にも聞き取りましたが、六月二十九日以降、ほぼ毎日頼まれていたそれはピタリと止まったそうです。行方はわかっていません」

 浅海の考察は筋が通っていた。やはりこの女はただのバカFBIではない。バカではあるが。

「植物界の侵出を予期した薬師はあの場所をどうにか破壊しようと、人目のつかない時間帯を狙って攻撃していた。しかしそれは謎のヒーロー達によって拒まれていた」

「まて、ヒーローの存在は証明したのか」

「はい。私はこの眼ではっきりと見ましたんで」

 夏焼がより深い説明を求める。

「二者は共に東京中の防犯カメラ映像から自らの姿を消し去ってました。しかしそれは同じようで全く異なる事象だったんだと思います。警察の皆さんが抑えた映像を見れないんであくまで仮説ですが。まず謎の物体は『自身の映った映像』を完全に消去していました。それは私も確認済みですしもちろん警察の皆さんも御存じですよね。映像内の時間は物体の映り込んだ時間だけがすっぽりと飛ばされていました。一方ヒーローが『映ったとされる』映像はきっと時間の切り取りの操作はなされておらず、『彼らの姿だけが』綺麗さっぱり消え失せていたのではないですか?だから警察の皆さんはヒーローを『存在しないもの』として考えた」

 夏焼はむやみに相槌をうたず、何度か小さく頷き、肯定意思の示した。

「ですよね。じゃあこの写真を見てください」

 浅海が先ほどとは異なる、数体の謎の物体が写された写真を夏焼に手渡す。

「何が見えますか」

「物体…」

 浅海が何かを確信した表情を夏焼に見せる。

「私にはこの写真の中にはっきりと見えるんです。赤青黄色緑桃色、五色に光るヒーローの姿が」

「何」

「警視庁の人間は誰一人その姿を視認できなかった。それをを考慮すると、人類の大多数はその姿を見ることもできないんだと思います。でも私のように、極めて少数の人間にはその姿がはっきりと視認できる。だから噂が立った。けれどそれを誰も立証できなかった。彼らはその姿を消していたんじゃなくて、そこにいるにもかかわらず、元から見えてなかっただけだったんですよ。きっと警察が抑えた防犯カメラの映像、私にははっきりと彼らの姿が見えるはずです」

 夏焼は浅海の考察に一つの異論も出せなかった。それは夏焼の頭の中で開けたてのジグソーピースのように難解に散らばった数々の不可解な事象を次々と結んでいった。

 植物界の侵出を予期した薬師。謎の物体は人工知能による兵士。植物界と何らかの方法でコンタクトを取った刺客。二者は植物界侵出を懸け人知れず戦っていた。

 そして浅海の捜査力。夏焼は一周回って彼女が本当にFBIである可能性も考慮した。

次の一手は」

「とりあえずこの部屋を隅々まで調べますかね。警察のお墨付きですから」

「FBIがいるのにか」

「…まだそれ言いますか?」

 二人はとりあえず部屋に散らばったゴミの掃除を始めた。夏焼はタバコを一本、最後まで吸いきった。

 

 3 

 

『大木を焼き払わなければ人類は滅亡する』

 薬師は大木から出現した植物戦士達を見てHypoの予期を思い出した。やはりHypoは完全だった。

 しかし戦いを制したのは謎の植物生命体だった。Hypoは崩れ落ち、大量の物体は植物により全てただのゴミへと還った。あの時Hypoに従っていれば。街を焼き払ってさえいたならばこんなことにはならなかった。もう人類は終わりだ。滅びるのだ。これは完全なる私の創り出したHypoに逆らった罰だ。

 イヤ。人類は悪くない。罰を受けるべきではない。受けるべきはあいつらだ。添田木村徳光緑山境。あの恩知らずの卑怯者共。あいつらが人類を滅亡させた。私に従ってさえおけばこんなことにはならなかった。あいつらは相応の罰を受けなければならない。人類への償いに。最も苦痛を与えうる方法で。最もその状態が長く保たれる状態で。死の淵に立たせては突き落とし肺から酸素がなくなったところに酸素をぶち込み内臓を破裂させる。この世の拷問を全て過去にするほどに痛みつけねばならない。

 あいつらは勘違いをしていた。Hypoが完全なのではない。Hypoを創った私こそが完全だということを。

 私はこれから自身の脳をHypoと融合させる。その時、私は全てを超越した存在となるだろう。

 電脳世界全体が私の脳となる。死することのない存在だ。そうだ。ついでに植物も滅ぼしてしまおう。それで世界も改めて気が付くだろう。私という尊い存在に。

 織姫。彦星。存分に天の川を楽しめ。お前らが天上から見下げるのも今年で最後になる。来年はお前らが私の下に立ち私に願いを乞うている。